チャールズ大帝の戴冠

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チャールズ大帝の戴冠

チャールズ大帝の戴冠(たいかん)

ピピンの死後、その息子チャールズ大帝(=カール1世/在位768-814)が王位に就きました。彼は卓越した軍事的才能(※)と政治的センスを有しており、帝国の拡大を図り、ヨーロッパ全域にわたる大帝国を築きました。

一方、ローマ教会はその頃、力を失いつつあり、チャールズ大帝のような権力者の後ろ盾を必要と感じていました。チャールズ大帝は父(ピピン3世)以上に教会に対して熱心(敬虔なキリスト教徒)で、ローマ教皇との友好関係を深めることに努めました。そして、教皇に対する全面的な協力を約束し、教皇のために領地を寄付しました。

「カールの戴冠」 ジャン・フーケ(1455年-1460年製作)

「カールの戴冠」 ジャン・フーケ(1455年-1460年製作)

それに対して時のローマ教皇(※)は、800年のクリスマスの日にチャールズ大帝にローマ皇帝の帝冠を授け「西ローマ帝国」の復活を宣言しました。

※第96代ローマ教皇レオ3世(在位:795年-816年)

※チャールズ大帝の戴冠をもって「中世ヨーロッパ世界の成立」と言われることがあります。

チャールズ大帝にとって、神の代理人である教皇から冠を授かることは、滅んだ西ローマ帝国の皇帝と同等であるというお墨付きを得ることを意味していました。つまり、ローマ皇帝の称号を授かったことで、世俗の世界、すなわち現実社会での代表者として権威が保障されたのです。

教皇もまた、領地を寄付されるとともに、教会や修道院を積極的に建設します。皇帝という後ろ盾(軍事的な保護者)を得て、西ヨーロッパにおける教会の代表者としての地位を強固なものにしていきました。

世俗の権力者「皇帝」と教会の権力者「ローマ教皇」は、持ちつ持たれつの関係だったのです。


チャールズ大帝の愛読書は「神国論」

チャールズ大帝はアウグスチヌスの「神国論」を愛読していました。教会は「魂」、国家は「体」という考えをもって神を中心とした人類統一の夢を果たそうと願いました。

しかし、彼の帝国は彼の天才的な資質に依存するところが多く、安定した強固な統一国家にまでなり得ていなかったため、彼の死後、急速に解体の道をたどることになります。

※引用:光言社「日本と世界のやさしいキリスト教史」


〔参考・引用〕
NHK高校講座「西ヨーロッパ世界の成立」/光言社「日本と世界のやさしいキリスト教史」/いのちのことば社「まんが キリスト教の歴史」/山川出版社「詳説 世界史B」