フランク王国 ピピンの寄進 教皇領国家

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フランク王国

フランク王国建国

395年、ローマ帝国は東西に分裂します。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)として、西に比べて国力の基盤が安定していましたが、西ローマ帝国は混乱が深まり、ゲルマン人たちはそれぞれ自立し、次々と王国を建て始めました(※1)。476年にはゲルマン人の傭兵隊長だったオドアケルにより、西ローマ帝国は滅ぼされます。ゲルマン民族は人々を統治するためには、キリスト教が必要であると考え、王たちは進んでカトリックに改宗し、宗教的な権威も得ようと努めました。

しかし、ゲルマン民族の建てたほとんどの国々の存続期間は短いものでした。ただし、フランク族が建国した「フランク王国(※2)」だけは、長い間存続していました。

西ローマ帝国滅亡の後、ゲンマン民族による諸王国が出現 <br />出典:吉川弘文館「文化圏別世界史対照年表」

西ローマ帝国滅亡の後、ゲンマン民族による諸王国が出現
出典:吉川弘文館「文化圏別世界史対照年表」

※1:ゲルマン民族による諸王国=フランク王国、西ゴート王国、東ゴート王国、ブルグント王国、ランゴバルド王国など

※2:8世紀にフランク王国は、政治の中心となります。そして、現在のドイツやフランス、イタリアの基礎がつくられました。


フランク王国はローマ教皇とともに発展

フランク王国の最初の王朝はメロヴィング王朝(※3)。フランク族の王クロービスは、家臣3000人とともに、それまで信じてきたアリウス派のキリスト教から、主流派(アタナシウス派)のローマ教会の教え(カトリック)に改宗し(※4)、フランク王国はローマ・カトリックを国教とする国になりました。そして、ローマ教皇(教会)とフランク王国は共に発展していきました。

※3:メロヴィング王朝:481~751年

※4:クロービス王の改宗:496年


メロヴィング王朝の衰退とカロリング王朝

その後、フランク王国のメロヴィング王朝の実権は衰退します。国王に代わってフランク王国の実権(財政・行政・実務など)を掌握し始めたのは、宮宰(きゅうさい)と呼ばれる王家の家臣たちでした。

※宮宰:宮廷の宰相(さいしょう)。フランク王国メロビング朝の最高官職。元来は王家の家政をつかさどるもの(執事の長)でしたが、王権の衰退とともに地位を高め行政職となりました(goo辞書)。

宮宰の中でも特に強い影響力を持っていた「カロリング家」です。宮宰となった力ール・マルテル(※)は、実質的な国王といっても過言ではないほどの権力基盤を確立しました。

※イベリア半島(スペイン)を占領していたイスラム教国家ウマイヤ朝(661-750)の西ヨーロッパ本土侵攻をトゥール・ポアティエ間の戦いで破り、カール・マルテルの活躍により、フランク王国軍が勝利しました。この戦いで、キリスト教をイスラム教から救ったため、フランク王国の救世主として、英雄的存在になりました。

751年、カール・マルテルの子であるピピン3世(在位751-768)は、ローマ教皇ザカリアス(在位741-752)の支持を交渉(※1)で取り付けて、宮廷革命(宮廷クーデター)を起こしました。そして、ピピンはフランク族の貴族たちによってフランク王に選出され(メロヴィング王朝を倒して)、カロリング王朝を開き、初代の王(在位751-768年)となりました。

※1:ピピン3世(小ピピン)はローマ教皇(※2)に「王朝交代・宮廷クーデターの正統性」を承認するように求めました。家臣である「カロリング家」が主家である「メロヴィング家」を実力で転覆させたとなると、カロリング朝の「国王権力の正統性」が有力貴族や一般市民、周辺諸国に承認されない恐れがありました。そのため、高い宗教的権威を持つ、ローマ教皇の権威を利用したのです。
ピピン3世が司会をするソアッソン会議で、ローマ教皇に「王の称号のみを持つ者と、王ではないが王権を行使する力ある者のどちらが王たるべきか」と尋ね、「実権を持つものが王となるべき」という回答を得て決議を促しました。これはピピンが事前に十分に根回しをした会議でした。

※2:第91代のローマ教皇ザカリアス(在位741-752)


ピピンの寄進 - 754年

その後、ローマ教皇(※3)は、カロリング朝の統治の正統性を認める代わりに、ラヴェンナ地方(イタリアの中心部の国土)を略奪したランゴバルド族の討伐をピピン3世(小ピピン)に要請します。ピピン3世はランゴバルド族と戦ってこれを打ち破り、ラヴェンナ地方を奪還してローマ教皇に献上しました(ピピンの寄進/754年)。ラヴェンナ地方は、その後の「教皇領国家(Papal State)」の基盤となりました。

※3:第92代のローマ教皇のステファヌス3世(在位752-757)

ピピンの寄進によって、フランク王国の国王権力よりも、ローマ教会の宗教的権威に優位にあることがわかります。ローマ教皇によって「国王権力の正統性」を保障するという慣習は「チャールズ大帝の戴冠(800年)」へとつながっていきます。



〔参考・引用〕
いのちのことば社「まんが キリスト教の歴史」/光言社「日本と世界のやさしいキリスト教史」/NHK高校講座「西ヨーロッパ世界の成立」/ウェブサイト「ES DISCOVERY」/裏辺歴史研究所