マタイによる福音書/24:29

日と月が光を失い星が空から落ちる

 

終末とは、人類始祖の堕落により出発したサタン主権の人類歴史(悪の歴史)が終焉し、神主権の人類歴史(善の歴史)が始まるときをいいます。終末における徴候のひとつとして、新約聖書のマタイの福音書(第24章/29節)には「日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ちる」と記録されています。しかし、科学が発達した時代に生きる私たちにとって、このような天変地異が起こるとは到底信じることはできないでしょう。

New Testament

日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ちる。

マタイによる福音書 第24章/29節

01/04

ヨセフの夢


ところで、聖書には比喩で表現されている聖句が随所にみられます。聖書の記録が真理であるならば、この預言も何かを比喩したものと考えるのが妥当でしょう。

上記のマタイの福音書に記録されている聖句を紐解くカギは、創世記(第37章/9節以下)に記録されているヨセフの夢にあるようです。ヨセフはアブラハムの息子ヤコブの12人の子女(兄弟)のうち、11番目の息子です。

Old Testament

ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄たちに話した。「わたしはまた夢を見ました。日と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」
今度は兄たちだけでなく、父にも話した。父はヨセフを叱って言った。「一体どういうことだ、お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか。」

旧約聖書「創世記」 第37章/9節-10節

ヨセフは父ヤコブに寵愛されていたため、兄弟たちから嫉妬されていました。ある日、兄弟たちはヨセフに相続権を奪われまいと、エジプトの商人に奴隷として売り飛ばしてしまいました。エジプトでは、高官の下僕となって働き、無実の罪で牢獄に入れられてしまったこともありましたが、ヨセフの聡明さがエジプトの王(ファラオ)に認められ、エジプトの宰相(総理大臣)にまでのぼり詰めました。

それから何年か後、エジプトの周辺諸国を飢饉が襲いました。しかし、エジプトはヨセフの采配により、食糧が潤沢に備えられていました。ヤコブの家族(ヨセフの父母と兄弟)が住むカナンでも飢饉が起こり、彼らは、食糧を求めてエジプトに上ります。彼らは総理大臣がヨセフとは気づかずに、大臣に食糧を陳情しました。かつてヨセフが見た夢の通り、その父母と子女(兄弟)たちが彼の前にひれ伏したのです。


02/04

日、月、星

上記の創世記の記録をみると、日と月と十一の星がヨセフを拝んだという夢の話を聞いた父は、ヨセフの夢の話に横柄さのようなものを感じたのか、「父母と兄弟が地面にひれ伏すのか」と叱っています。しかし、飢饉のときには、ヤコブの家族、すなわち、父と母と、ヨセフ以外の兄弟11人が、総理大臣となったヨセフにひれ伏しました。このことから、日と月は父と母を象徴しており、星は子女(兄弟)たちを象徴していることが推測されます。

太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏す(ヨセフの夢)
聖書中の表現喩えられているもの
太陽と月父と母
11人の子女(兄弟)

03/04

日と月が光を失う

人類の始祖であるアダムとエバは、神からの戒めを守ることができずに、偽りの父母となってしまい、この世界に偽りの子女を生み増やしてしまいました。その結果、偽りの人類歴史(闘争や葛藤の起こる歴史)が綴られるようになりました。神を中心とした世界が展開されず、サタンを中心とした歴史が展開されているのです。神は、その偽りの人類歴史を終わらせ、真の人類歴史を始めるために人類救援の摂理を6000年間も進められてこられました。終末とは、そのような「偽りの歴史」が終わり、「真の歴史」が始まるときをいうのです。

終末には、「真の歴史」を始めるために、真の人類始祖(真の父母)として第2のアダムと第2のエバが現れます。神の摂理でいう「メシヤ(救世主)」です。メシヤは偽りの人類を真の人類として生み直す使命があります。2000年前には、イエス・キリストがメシヤとして降臨しましたが、当時の人々は、イエスを信じることができず、十字架で殺害してしまったため、人類の真の父母としての使命を全うできませんでした。結局、イエスは霊的に「聖霊(霊的な真の母)」を迎え、霊的な真の父母となることができましたが、霊的な救いのみが成就され、地上における実体的な救いは実現できませんでした。そのため、イエスは「私はまた来る」といわれたのです。

※イエスはアダムのできなかったことをする使命を持っているので「第2のアダム(のちのアダム)」とよばれています。そして、再臨のキリストのことを「第3のアダム」とよんでいます。

ところで、終末には「日と月が光を失う」と聖書に記録されています。ヨセフの夢から、そのまま類推すると、聖句中の「日」は人類の父としての「メシヤ」、「月」は人類の母である「聖霊」に相当します。すると、再臨のメシヤと聖霊が光を失う(真の父母が光を失う)という解釈となり、身も蓋もない預言となってしまいます。

ここであらためて新約聖書(ヨハネの福音書第1章9節)を参照すると、イエスを真の光に喩えています。それは、彼の肉体がみ言によってつくられ、真理の光を発したからです。それゆえ、日の光とは、イエスの発する光であり、すなわち、イエスから発せられるみ言を象徴しているのです。日と月が光を失うとは、イエスと聖霊から発せられるみ言が光を失うという解釈になります。

日と月が光を失う(終末期)
聖書中の表現喩えられているもの
日と月イエスと聖霊
イエスと聖霊から発せられるみ言

ではなぜみ言が光を失ってしまうのでしょうか。2000年前、イエスの初臨のときには、「新約のみ言」が発せられるとともに、「旧約のみ言」が役割を終えました。同様に、イエスが再臨される終末期には、その時代に適した「新しいみ言」が与えられるため、「新約のみ言」の役割が終わるということを意味するのです。


04/04

星が空から落ちる

ヨセフの夢では、子女(ヨセフ以外の11人の兄弟)が「11の星」に喩えられていました。終末おいては、真の父母により生み直される子女が「星」に喩えられます。2000年前のイエスの時代には、ユダヤ教指導者たちが、その星でしたが、イエスに逆らい、救われることなく、つまずき落ちてしまいました。そして、終末期を迎えた現代は、再臨のメシヤ(真の父母)により、最初に生み見直されるように準備されていたキリスト教徒が、子女であり、星に喩えられることになります。「星が空から落ちる」とは、イエスのときと同じように、再臨のメシヤを信じなければ、つまずき落ちてしまうということを喩えている聖句なのです。


〔参考文献・出典・引用など〕
日本聖書教会「新約聖書」/世界平和統一家庭連合「原理講論」