教区長制キリスト教会時代

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教区長制キリスト教会時代

教区長制キリスト教会時代(392年~800年)

西暦392年、それまでローマ帝国により迫害されてきたキリスト教は、ローマ皇帝テオドシウス1世(在位 379年 - 395年)により国教化されました。キリスト教会は地中海を取り囲むようにして、大きく勢力を広げます。そして、ローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムの五大教区に分かれました。692年のトゥルーリ公会議では、五大教区は「五大総主教区」として、正式な格付けが与えられました。

五大総主教区

五大総主教区

それぞれの総主教区には、「総主教」と呼ばれる管理責任者(教区長)が立てられ、教会運営がなされるようになります。そして「総主教(教区長)」を中心にキリスト教の封建社会が始まりました。この時代は「教区長制キリスト教会時代」と呼ばれます。

※このときのローマ総主教区の総主教が、のちに「ローマ教皇(=ローマ法王)」となっていきます。


士師の時代

ところで「総主教」は、ギリシャ語の「父なる指導者/Πατριάρχης(パトリアルヒス)」に相当し、旧約時代(イスラエル民族)の族長に由来します。

紀元前15世紀(BC1491年)、エジプトの迫害が終わり、モーセにより出エジプトを果たし、ヨシュアとカレブがイスラエル民族を率いて、故郷のカナンの地に入りました。その後、イスラエル民族は12の部族に分かれてカナンの地を治めます。そして、「士師」と呼ばれる族長(指導者)を中心にユダヤ教の封建社会が始まりました。この時代を「士師の時代」と呼びます。


教区長制キリスト教会時代と士師時代

キリスト教がローマ帝国から迫害を受ける時代が終わり、国教化されたのは392年。その後、800年にはローマ教皇により、カール大帝(チャールズ大帝)が戴冠され、西ローマの皇帝(※)として即位。 これによりヨーロッパの王権とローマ教会の結びつきが強まり、フランク王国には、キリスト教王国とも言えるような時代が始まりました。

※教皇レオ3世はカールにローマ皇帝の帝冠をあたえ、「西ローマ帝国」の復活を宣言しました。しかし、東ローマ帝国はカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称(=勝手に名乗っている)とみなしていました。

一方、ユダヤ教の歴史をみると、イスラエル民族(ユダヤ民族)がエジプトでの苦役の時代が終わり、モーセの導きで、エジプトを脱出したのは、BC1491年。その後、BC1095年には士師(サムエル)により、サウルが頭に油を注がれ、サウル王として即位し、イスラエルの統一王国時代が始まりました。

教区長制キリスト教会時代と士師時代、どちらも約400年間です。その前後にも似たような歴史が繰り返されています。このような視点からは、キリスト教の歴史はユダヤ教の歴史の再現されているように見えます。これは、神の人類救援の摂理であり、失敗(※)したら、始めからやり直さなければならないという摂理(=復帰の摂理)が人類歴史に展開されているためといわれています。

※本文中の年代は「Ussher chronology」より引用

※失敗(イエスのとき)=イスラエルの選民たちが、イエス信じかつ侍り奉って、神殿に迎え、イエスを生きた供え物としてささげる献祭に失敗し、彼を十字架に引き渡してしまったこと。
…その後、キリスト教徒は、ローマ帝国からの迫害を受ける時代となります。

※失敗(アブラハムのとき)=アブラハムが鳩と羊と雌牛を供え物としてささげる献祭に失敗したこと。
…その後、イスラエル民族は、エジプトで迫害と苦役を受ける時代となります。



〔参考・引用〕
世界基督教統一神霊協会「原理講論」/Ussher chronology