キリスト教会の繁栄国破れて、キリスト教在り
Turkey during sunrise
キリスト教の公認・国教化
西暦313年、ローマ皇帝コンスタンティヌス一世はローマ皇帝として、初めてキリスト教を公認した。約300年間の迫害の時を耐え、カタコンベで信仰を守ってきたキリスト教徒であったが、キリスト教の公認により、ついに表舞台に躍り出ることとなった。コンスタンティヌス帝は、首都を小さな港町であったビザンティウムに移し、自らの名前をとって「コンスタンティノープル」と改名。ローマの中心はコンスタンティノープルに移った。
コンスタンティヌス帝のもと、各地に教会が建てられ、キリスト教徒の数が次第に増えていった。
さらに392年には、ローマ皇帝テオドシウス一世がキリスト教をローマ帝国の国教に制定。キリスト教は、一気に勢力を拡大させ、信者がさらに増えていった。
※コンスタンティノープルは、今のトルコの最大都市イスタンブール。ただし、今のトルコの首都はアンカラ。
ローマ帝国の分裂
西暦395年、テオドシウス一世が亡くなると、彼のあとを2人の息子が継ぐことになった。18才の長男アルカディウスに帝国の東半分(東ローマ帝国)、11才の次男ホノリウスに帝国の西半分(西ローマ帝国)を継がせ、2人はそれぞれ皇帝となった。
しかし、2人の皇帝はまだ子供で政治に無関心。東西それぞれの国の実権は軍や役人が握ることとなった。当初は東西の「分割統治」であったが、後にローマ帝国は東西に「恒久的に分裂」してしまった。
※東ローマ帝国は、コンスタンティノープルの元の港町の名前にちなんで「ビザンツ帝国」とも呼ばれる。西ローマ帝国は、異民族によって滅ぼされたが、ビザンツ帝国は、ローマの文化やヘレニズム文化、そしてキリスト教を受け継ぎ、守りながら、1000年以上にわたって続いた。
キリスト教の分割
ローマ帝国の分割統治に伴い、キリスト教も東西に分割され、それぞれ独自の道を歩み始めた。それが、東ローマ帝国(コンスタンティノープル)の「東方正教会」と西ローマ帝国の「ローマカトリック教会」だ。当時、五本山と呼ばれる5つの教会(5大教区)(※)に分かれたが、「東方正教会」と「ローマカトリック教会」は、皇帝の膝元にあっため、他の3本山の教会よりも優位な立場にあった。
ローマ帝国の分裂
※ローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムの五大教区
そして、「東方正教会」と「ローマカトリック教会」はそれぞれの正当性を主張し、教義などを巡って対立するようになっていった。
西ローマ帝国の滅亡
コンスタンティノプールを総本山とする東方正教会は東ローマ帝国の庇護(ひご)もと、大いに繁栄した。
一方、西ローマ帝国は、現在のドイツ北部、デンマークのあたりに住んでいたゲルマン民族の度重なる攻撃に耐え切れないほど、弱体化しており、首都はローマからミラノ、のちにラヴェンナという場所に次々と移された。そして、476年、ゲルマン系の傭兵隊長であるオドアケル率いる反乱軍(クー・デター)により滅亡した。
しかし、国が亡くなってもキリスト教は衰えず、ローマのカトリックの教皇は、絶大な力を維持し続けていた。つまり、西ローマ帝国がなくなってもキリスト教会は全く衰えなかった。「国破れてキリスト教在り」と杜甫の詩文を捩りたくなるような歴史の一場面だ。
※その後も、ローマカトリック教会と東方正教会は対立を続けます。そして、1054年、ローマ教皇と東方正教会の総主教が互いに破門しあい2つの教会は完全に決別してしまった。
ゲルマン民族の大移動(4世紀後半)
最初に、東方遊牧民族(アジア系遊牧民族)であるフン族が黒海の北岸へ移動してきた。この地に居住していた東ゴート族(ゲルマン民族の一つ)は征服されてしまった。フン族は次に西ゴート族に迫ったので、西ゴート族は南下。ドナウ川を渡ってローマ帝国領内へと侵入した。これが375年、ゲルマン民族大移動の開始だ。さらに、他のゲルマン諸族も次々と移動を開始し、各地にゲルマン民族の国を建国していった。この大移動による混乱の中、西ローマ帝国は、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって476年に滅亡した。
なお、東ローマ帝国(=ビザンツ帝国)はフン族とフン族に支配された東ゴート族の侵入を防いだ。
いのちのことば社「まんがキリスト教の歴史」
テレビ東京「137億年の物語-キリスト教徒の暴走」/wikipedia-テオドシウス1世、アルカディウス、ホノリウス