聖書と歴史の学習館

イザナギ、イザナミの物語日本神話 悪と穢れはどこから生まれたのか

私たち人間は、ふとした出来事や感情の揺れをきっかけに、好ましくない思いや衝動を抱いてしまうことがあります。たとえ実際に犯罪行為へと至らなかったとしても、心の奥底には誰しも邪心の芽を潜ませていると言えるでしょう。そして、その邪心を抑えきれず行動に移してしまったとき、他人を不幸にするだけでなく、自分自身もまた良心の呵責や恐怖に苛まれ、深い苦しみを背負うことになります。悪や苦しみ、不幸は、誰もができる限り遠ざけたいものです。

では、こうした邪心や悪、苦しみや不幸といったものは、この世界が誕生した瞬間から先天的に備わっていたのでしょうか。それとも、何らかの出来事や選択をきっかけに、後天的にこの世へ入り込んできたものなのでしょうか。この根源的な問いを考える手がかりとして、世界各地に伝えられてきた神話があります。神話には、神々や人間の失敗談とともに、悪や苦しみ、不幸がどのようにして生まれ、広がっていったのかという、人類共通の問題意識が象徴的に描かれています。

ここでは、その一例として、日本神話に語られる「イザナギとイザナミの物語」を取り上げ、悪や不幸はいかにしてこの世に現れたのか、その起源について考えていきます。

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イザナギ(伊邪那岐)とイザナミ(伊邪那美)の誕生

日本神話には数多くの神々が登場しますが、その始まりは、天地開闢(てんちかいびゃく)(※1)と呼ばれる、世界が誕生した瞬間にさかのぼります。このとき最初に現れたのが、別天津神(ことあまつかみ)(※2)です。別天津神は、この世界の根源となる存在であり、男女の区別を持たない特別な神々とされています。

※1:天地開闢…世界がはじめて生まれたとされる神話上の出来事。

※2:別天津神…天地開闢の際に現れた五柱の神々の総称。
(日本神話では、神は人数ではなく「柱」という単位で数えられます。)

その後、神話は「神代七代(かみよななよ)」と呼ばれる時代へと進み、神々には次第に男女の性別が明確に備わっていきます。この時代は、神々の姿や性が整い、互いに惹かれ合い、夫婦となる存在が現れる過程を描いたものです。そして、その神代七代の最後に誕生したのが、男神である イザナギ(伊邪那岐)と、女神であるイザナミ(伊邪那美)でした。


02/07

女のイザナミから誘って失敗

別天津神(ことあまつかみ)は、イザナギとイザナミにに対し、未完成の大地を整え、国を完成させるよう命じました。そして、特別な矛である天沼矛(あめのぬぼこ)を授け、「海に漂う国を治めよ」と告げます。

国づくりを命じられるイザナギとイザナミ

国づくりを命じられるイザナギとイザナミ

当時の大地は、まだ固まらず、地と呼べる状態ではないほど、どろどろとしていました。二人は天浮橋(あめのうきはし)に立ち、天沼矛で混沌とした大地をかき混ぜます。そのとき、矛の先から滴り落ちたものが積もり重なり、最初の島である「おのごろじま」が生まれました。二人はその島に降り立ち、国づくりを始めます。

やがてイザナギは、イザナミにこう問いかけました。「あなたの体は、どのようにできていますか」。イザナミは、「私の体には、十分に成長したところと、まだ成長しきっていないところが一か所あります」と答えます。それを聞いたイザナギは、「私の体には、成長しすぎたところが一か所あります。そこで、その部分であなたの成長していないところを補い、国土を生み出したいと思います。いかがでしょうか」と提案しました。

その後、二人は夫婦となり、交わることになります。しかし、このとき女性であるイザナミのほうから先に声をかけてしまいました。その結果、生まれた子どもは、いずれも不具の子(未熟な姿の子)(※)であったとされています。二人は、その子どもたちを葦舟に乗せ、海へと流しました。

なぜ正しく子が生まれないのか疑問に思った二人は、別天津神のもとを訪ね、その理由を尋ねます。すると、女神であるイザナミのほうから誘ったことが、この国生みにおける失敗であったと指摘されました。

※最初に生まれたヒルコ(水蛭子)は、体が定まらず蛭のようにぐにゃぐにゃとした姿であったとされ、続いて生まれたアワシマ(淡嶋)も、実体がはっきりしない不完全な存在であったと伝えられています。


03/07

なぜ「女性が先に声をかけた」ことが失敗だったのか

イザナギとイザナミが国生み・神生みを行った場面では、「女神イザナミのほうから先に声をかけたこと」が失敗の原因として語られます。 しかしこれは、女性であること自体が問題とされたわけではありません。神話が問題にしているのは、創造の儀礼において定められていた秩序や順序が破られたことそのものです。

『古事記』の国生み神話には、「女、先に言ひけるは良からず」という一文が記されています。これは、女神が先に発言したことが好ましくなかった、つまり本来守られるべき手順に反していたことを、物語の中ではっきり示した表現です。その結果として、最初に生まれたヒルコやアワシマが不完全な存在として描かれ、神々の助言を受けて、改めて正しい順序でやり直す展開へと進みます。

古代の神話世界では、創造行為は単なる行動ではなく、宇宙の秩序を確立するための神聖な儀礼と考えられていました。そこには必ず「型」や「順序」があり、それを守ることで完全なものが生まれると信じられていたのです。イザナミが先に声をかけた行為は、善悪の判断以前に、秩序の型を崩してしまった行為として象徴的に描かれています。

神話がこの場面で伝えようとしているのは、悪や不完全さが最初から世界に存在していたという考えではありません。むしろ、禁を破り、秩序に反する行為がなされたとき、それまでなかった歪みや不完全さが後天的に生じるという思想です。ヒルコやアワシマの誕生は、その最初の兆しとして位置づけられているのです。

この点を踏まえると、単に「女性が先に声をかけたから悪い」という読み方は、神話の本質を見誤ったものだと言えます。日本神話が描いているのは性別の優劣ではなく、世界が秩序から逸脱した瞬間に、初めて不完全さや禍が入り込むという、きわめて象徴的な世界観なのです。


04/07

ヒルコ(水蛭子)とアワシマ(淡嶋)

日本神話において、ヒルコ(水蛭子)とアワシマ(淡嶋)は、イザナギとイザナミのあいだに生まれた神とされています。 しかしこの二柱は、他の神々とは異なり、「正しく生まれなかった神」として、特別な位置づけが与えられています。

『古事記』『日本書紀』によれば、国生み・神生みの最初の段階で、本来守られるべき秩序が破られました。 本来は男神であるイザナギが先に声をかけるべきところを、女神イザナミのほうから先に誘って交わってしまったのです。 この秩序に反した行為の結果として生まれたのが、 ヒルコ(水蛭子)とアワシマ(淡嶋)でした。

二柱は、手足が定まらない、体が柔らかく形を成さないなど、神としての力や姿が整っていない存在として描かれます。 そのため正式な神生みには数えられず、国を治める神ともならず、葦舟に乗せられて流されるという運命をたどりました。 ここには、「生まれたこと」自体が問題なのではなく、秩序に反した結果として生まれたことが問題である、という神話的な価値観が示されています。

この物語が象徴しているのは、日本神話における重要な思想です。 それは、悪や穢れ、不完全さといったものは、この世の創造と同時に存在していたのではなく、 禁を破り、秩序を乱した行為によって、後天的にこの世へ入り込んだという考え方です。 ヒルコとアワシマは、まさにその最初の兆しとして描かれた存在だと言えるでしょう。

このように、ヒルコとアワシマはイザナミが産んだ神でありながら、 正規の神生みには含まれない「失敗」や「秩序の乱れ」を象徴する存在です。 のちに語られる穢れや禍、悪の発生を理解するうえで、 二柱は「諸悪の根源が生まれる直前段階」を示す、きわめて重要な役割を担っているのです。


05/07

汚れてしまったイザナミ

イザナギとイザナミは、国づくりをあらためてやり直し、次々と島々や、その島々を司る神々を生み出していきました。ところがあるとき、イザナミは火の神であるホノカグツチ(火之迦具土神・ヒノカグツチノカミ)を生んだ際、御陰(みほと/女性器)に大きな火傷を負い、命を落としてしまいます。深い悲しみと怒りに包まれたイザナギは、火の神を斬り殺し、亡きイザナミを比婆の山に葬りました。

ホノカグツチの誕生とイザナミの死

ホノカグツチの誕生とイザナミの死

それでもイザナギは、イザナミへの想いを断ち切ることができず、地下にある死者の世界「黄泉国(よみのくに)」」まで彼女に会いに向かいます。黄泉の国の御殿にたどり着いたイザナギは、戸を隔ててイザナミと再会しますが、あたりは闇に包まれ、彼女の姿をはっきりと見ることはできませんでした。

黄泉の国での再会

イザナギは、「あなたと共に創った国は、まだ完成していません。さあ、一緒に帰りましょう」と語りかけます。しかしイザナミは、「私は黄泉の国の穢れた火で炊いたものを食べてしまいました。もう元の世界へは戻れません。それでも、せっかくあなたが来てくれたのですから、この国の神々と相談してみましょう。その間、どのようなことがあっても、決して私の姿を見ないでください」と答え、御殿の奥へと姿を消しました。

ところが、どれほど待ってもイザナミは戻ってきません。しびれを切らしたイザナギは、固く禁じられていた約束を破り、御殿の奥へ足を踏み入れてしまいます。そこで彼が目にしたのは、体は腐り、蛆(ウジ)がたかり、激しい悪臭を放つ、恐ろしい姿となったイザナミでした。さらに、その穢れ(けがれ)から生まれた蛇の姿をした八雷神が、彼女の体にまとわりついていたのです。

恐ろしい姿のイザナミ

御殿の中のイザナミ

あまりの光景に驚き恐れたイザナギは、その場から必死に逃げ出します。一方、イザナミは、約束を破られ恥をかかされたことに激しく怒り、黄泉の国に仕える女の悪鬼たちに命じて、イザナギを捕らえさせようとします。さらに、八柱の雷神や千五百もの鬼の軍勢が追いかけますが、イザナギは命からがら黄泉の国から逃げ延びることができました。

黄泉の国から逃げるイザナギ


06/07

穢れ(けがれ)から禍の神が生まれる

黄泉の国から無事に戻った イザナギの身体や衣服、身につけていた装身具には、死の世界で受けた穢れ(けがれ)が付着していました。そこでイザナギは、その穢れを祓い清めるため、阿波岐原(あわきはら)にある清らかな川のほとりに立ち、上着を脱ぎ、冠や腕輪などを外して、身を洗い浄めることにします。

川の澄んだ水を浴びて身体を清めると、その際にイザナギの身にまとわりついていた穢れから、二柱の禍の神が生まれました。

ここでは、死や汚れが新たな災いの神を生む存在として描かれ、後の神話における「穢れ」と「祓い」という考え方の原型がここにも示されています。


07/07

日本神話と海外の神話との類似点

日本神話を読み解いていくと、海外の神話や宗教的物語と共通する要素が数多く見られます。とくに、ギリシア神話における「パンドラの箱」や、旧約聖書に描かれる創世記の「失楽園の物語」とは、構造や主題の面で興味深い類似点があります。

  • 物語の発端が「失敗」として描かれていること
  • 女性の行為が物語の転換点となっていること
  • 不具の子や蛇の姿をした存在など、異形のものが生まれること
  • 火が関係していること
  • 「してはならないこと(禁)」を破り、穢れを世界にもたらしてしまうこと

といった点が、その代表例です。

日本神話では、黄泉の国から戻ったイザナギに付着していた穢れから禍の神が生まれました。ここでいう「穢れ」とは、身体や行為が本来あるべき理想的な状態から外れた、好ましくない性質を帯びた状態を指します。もともとこの世には存在しなかった穢れが、死者の国で禁を破ったことによって、後天的に現世へ持ち込まれたと考えられているのです。

この構造は、ギリシア神話においてパンドラが禁を破って箱を開けたことで、災いや不幸が世界に広がったという物語とよく似ています。また、失楽園の物語において、エバが禁じられた木の実を口にした結果、人間が堕落し、悪や苦しみを抱える世界が生まれたという展開とも共通しています。

このように、日本神話と海外の神話には、「禁を破る行為によって、もともとなかった悪や不幸が世界に入り込む」という普遍的なテーマが見られます。神話は地域や文化が異なっても、人間が抱いてきた根源的な問いや不安を、共通のかたちで映し出していると言えるでしょう。

〔出典・参考〕
古事記物語(鈴木三重吉)/日本の神話 はじめての「古事記」入門(河口 英悟)/wikipedia/goo辞書/世界宗教用語大辞典