聖書と歴史の学習館

復帰摂理天地創造を完成へ導く神の計画

復帰摂理とは、人類始祖の堕落によって中断された神の天地創造を、再び完成へと導くために進められてきた神の計画です。神との関係を失い、サタンの側に移ってしまった人間と被造世界(万物)を、本来あるべき神の側へと取り戻すために、神が長い歴史を通して、我が子である人類を救い出そうとしてきた歩みでもあります。

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神の天地創造の目的

神が天地を創造された目的は、単に世界(宇宙・万物)をつくることではありませんでした。その完成点に置かれていたのが「人間の創造」です。神は、人間を被造物の一つとしてではなく、自らの血統を受け継ぐ我が子として創造されました。

そのため神は、天地創造のすべてを一方的に完成させるのではなく、あえてその一部を人間に委ねました。これが「人間の責任分担」と呼ばれるものです。天地創造における人間の責任分担とは、人間が自らの意志と努力によって成長し、神の血統を持つ人間として完成に至ることを意味します。言い換えれば、人間自身が人間を完成させることで、はじめて天地創造が完結するという構造になっていたのです。そのため、神ですら直接介入できないこの領域を人間に任せることによって、人間は天地創造に主体的に加担した存在となり、その条件のもとで、神は人間を神の血統を持つ真の我が子として立て、被造世界のすべて(万物)を管理・相続する立場を与える計画でした。すなわち、神は、最高の愛の対象として、最高の喜びの対象として、すべてを我が子に与えるために、被造世界の主人公として人間を創造されたのです。


02/08

神の天地創造は未完了

しかし、人間始祖であるアダムとエバは、成長過程において本来結ぶべきではない存在「サタン」と関係を結んでしまいました。その結果、人間は神の血統を受け継ぐ存在ではなく、サタンの血統を受け継ぐ存在、すなわち「サタン型の人間」となってしまいました。これを、聖書では「堕落」と呼んでいます。

人間が堕落したことにより、本来は神の側に立つ人間に委ねられるはずであった被造世界(万物)もまた、神の手を離れ、サタンの側へと移ってしまいました。こうして、神の天地創造は完成を目前にしながら、中断された状態となったのです。

人間と万物を失った神は、深い孤独と悲しみの立場に置かれました。しかし、天地創造を途中で放棄することは、神の絶対性そのものを否定することになります。神の摂理を完了させるためには、人間が再び神の側に立ち、奪われた被造世界の所有権を神のもとへ取り戻す必要があります。さらに、人間がメシヤ(救い主)を迎え、サタンの血統を受け継ぐ「サタン型の人間」から、神の血統を受け継ぐ「神型の人間」へと転換しなければなりません。この回復の過程(救いの過程)こそが、神の「復帰摂理」なのです。そして、救い出された人間は神の世界で、再び成長し、神型の人間として完成することにより、神の摂理(天地創造)が完結するのです。


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復帰摂理とそれが困難な理由

神は絶対者であるがゆえに、天地創造の目的を途中で変えることはできません。一度立てた理想は、必ず実現されなければならないのです。

救いの摂理とは、サタンの支配下に置かれてしまった人間と万物を、再び神の側へ取り戻すことを意味します。 それは、我が子をさらわれた親が、長い時間をかけて救い出そうとする営みにもたとえられます。

しかし問題は、堕落が人間の責任分担の領域で起こったという点です。神は環境を整えることはできても、人間の選択そのものに強制的に介入することはできません。だからこそ、人間自身が自らの責任で復帰の道を歩む必要があり、そこに復帰摂理の困難さがあるのです。


04/08

人類の責任分担はメシヤを信じ、従うこと

約2000年前、神はメシヤ(救い主)としてイエス・キリストを遣わされました。人間が自らの責任で復帰しなければならない以上、メシヤもまた人間として来る必要があったのです。人類がそのイエスを信じ、従順となり、救いの道を歩むか否かは人間の責任分担です。

イエスの使命は、サタン型の人間を神型の人間へと転換させることにありました。それと同時に、サタンを主体とした世界を、神を主体とする世界、すなわち「神の国」へと転換し、それをこの地に実現することでした。そのためイエスは、「悔い改めよ。神の国は近づいた」と宣べ伝えたのです。

しかし人類はイエスを信じきることができず、結果として十字架にかけてしまいます。ここでも人類は責任分担を果たすことができず、復帰摂理は再び延期されることになりました。

それ以降、神はキリスト教を中心として、再臨の時代に備える摂理を進めてこられました。そして、今、再びメシヤを迎える時代となっています。人類が再臨のメシヤを信じて、救いの道を歩むか否かの選択は人間の責任分担です。復帰の完成は、神が準備し、人間が応答するという「神と人間の協働」によってのみ実現するのです。


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現代は再びメシヤを迎える時代

イエスの時代から、現代の再臨の時代に至るまでには、約2000年という長い時間がかかりました。ではなぜ、神はイエスが十字架にかけられた直後に、次のメシヤ(再臨主)を遣わすことができなかったのでしょうか。それは、神が絶対的な存在であり、摂理における「失敗」をそのままにしておくことができない(神において「失敗」はあり得ない)からです。

人類がイエスを殺害したことにより、復帰摂理は本来の道筋から外れてしまいました。しかし、その出来事も神の天地創造の過程の中で起こった以上、神はその状況を「失敗」として終わらせるのではなく、人類自身の責任によって修復しなければなりませんでした。言い換えれば、人類がイエスを殺害したにもかかわらず、結果としては「殺害しなかった」と言える条件を、歴史を通して立て直す必要があったのです。

そのために人類は、自らの責任で長い歴史的な修復の期間を歩むことになりました。その例として、イエスを殺害したユダヤ民族(イスラエル民族)の歴史が挙げられます。彼らは離散や放浪、迫害といった苦難を重ねながら、約2000年にわたって復帰摂理の修復、いわば「代償を払う期間」を歩みました。そしてその期間を経て、1948年にユダヤ民族の国家イスラエルが建国されたのです。

こうした歴史的な修復の期間を経て、現代は再びメシヤを迎えるための条件が整えられた時代であると理解されています。それは、神の側の準備が整ったという意味であると同時に、人類が再び「選択」を迫られる時代に入ったことを意味します。

2000年という期間と復帰摂理~同時性の摂理~

復帰摂理は、一直線に進められてきたわけではありません。人間の責任分担が果たされなかった場合、神はその失敗を放置することなく、同じ条件を歴史の中で改めて立て直す摂理を進めてこられました。これを「同時性の摂理」と呼びます。

アダムからアブラハムに至る約2000年間は、家庭を中心とした復帰摂理の時代でした。この時代、アブラハムの系譜を通して、ヤコブのときに家庭レベルでの復帰基台を立てることに成功しました。しかし当時、サタン側はすでに民族レベルまで版図を広げており、神の側が家庭的基盤の中で復帰摂理を進めたとしても、その成果は民族的な力を持つサタン側によって容易に破壊されてしまう状況にありました。そのため、この段階でメシヤを遣わしても、神の側にはそれを守り、支えるための民族的基盤が存在せず、復帰の成果を維持することができなかったのです。

そこで神は、家庭レベルにとどまらず、民族レベル以上で復帰基台を築く必要があると判断されました。その結果として、アブラハムからイエスに至る約2000年間、イスラエル民族を中心とした復帰摂理が展開されることになります。この時代は、家庭の枠を超え、民族全体を基盤として神の版図を拡大し、メシヤを迎えるための土台を整える期間でした。

しかし、メシヤとして遣わされたイエスが十字架にかけられたことにより、民族を中心としたこの復帰摂理も完成には至りませんでした。そのため、イエス以後、今日に至るまでの約2000年間は、キリスト教を中心とした世界的な復帰摂理が、再び同時性の摂理として進められてきたと理解されています。

このように、家庭、民族、そして世界という段階を経て進められてきた復帰摂理は、現代において再びメシヤを迎えるための条件が整えられた段階に入ったと考えられています。現代は、長い歴史を通して積み重ねられてきた復帰摂理が、最終的な完成へ向かう重要な時代に立っているのです。

参考:統一思想研究院「統一思想要綱」

column

神は強制しない選択に委ねられた現代の使命

イエスの時代と同様に、神は人間に強制することはありません。救いは、与えられるものではなく、受け取るかどうかを人間自身が人間の責任分担において決めるものだからです。その意味で現代は、歴史の中でも特に重い責任が人類に委ねられている時代だといえるでしょう。

現代人に求められている責任分担とは、特別な能力や偉業を成し遂げることではありません。それは、再び遣わされるメシヤを正しく理解し、信じ、従うかどうかを、一人ひとりが自らの意志で選択することです。

神は環境を整え、道を備えますが、その道を歩むかどうかは人間の責任分担(人間の自由)に委ねられています。この自由こそが、人間に与えられた尊厳であり、同時に責任でもあります。現代の復帰摂理は、集団や民族だけでなく、個々の人間の内面的な選択によって完成へと向かう段階に入っているのです。

つまり現代とは、神と人間の関係が再び結ばれるかどうかが、一人ひとりの判断に委ねられた時代であり、復帰摂理が最終段階へと進むかどうかの分かれ目に立つ時代だといえるのです。

 

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一人の人物から始まる神の摂理

神の摂理は常に、サタンの世界の中から選ばれた一人の人間、すなわち摂理の中心人物から始められます。その原型はすでにアダムの家庭にありましたが、私たちが歴史として理解できる形で摂理が顕現したのは、ノアの洪水においてでしょう。神はノアとその家族のみを選び、それ以外の罪悪世界を滅ぼされました。しかし、ノアの次男ハムの過ちによって、神の摂理は再び頓挫してしまいます。

その約400年後、神は改めてアブラハムを選び、その子イサク、孫ヤコブへと摂理をつないでいきました。この過程において、神の摂理は家庭レベルで一定の成功を収め、さらにアブラハムの子孫が増えることによって、氏族から民族レベルへと神の版図が広がっていきます。今でもアブラハムはイスラエル民族の祖父とされ、イスラエル民族(ユダヤ民族)は神から選ばれた選民であるという意識を持っています。

このように、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブへと続く系譜は偶然の連なりではなく、人間の責任分担を段階的に回復していくための必然的なプロセスであると理解されています。神の摂理は、一人の人物から始まり、家庭、氏族、民族へと、段階的にその版図を広げながら進められてきたのです。


07/08

段階的に広がる神の摂理

神の摂理が一人の人物から始まり、家庭、氏族、民族へと段階的に広がってきたのは、単に人の数を増やすためではありません。人間の堕落が、まず個人の問題として始まり、やがて家庭、社会、世界全体へと影響を及ぼしていった以上、復帰摂理もまた、同じ順序をたどって回復されなければならないからです。

まず一人の人間が神の側に立ち、その信仰と責任分担が家庭に根づくことで、はじめて神の秩序が人間社会の最小単位である家庭に確立されます。その家庭が連なり、氏族や民族へと広がることで、神の版図は段階的に拡大していくのです。

この原理に基づき、民族レベルで一定の基盤が整えられた後、神の摂理は国境や民族の枠を超え、世界的な段階へと進むことになります。こうして、復帰摂理は家庭から民族へ、そして世界へと、順序をもって展開されてきたのです。


08/08

現代の神の摂理は世界レベル

アブラハム、イサク、ヤコブを起点として、モーセ、ソロモン、そしてイエスへと続いてきた神の摂理は、イエスの時代を境に大きな転換点を迎えました。それまで特定の民族を中心に進められてきた摂理は、イエス以降、ユダヤ民族の枠を超え、キリスト教信徒を中心とする世界的な段階へと拡大していったのです。

この世界的段階においても、神の摂理の本質は変わっていません。それは、サタンの側に属してしまった人間と被造世界(万物)を、再び神の側へと取り戻していくことです。土地や財物、人間社会の秩序を含め、世界全体がその対象となる以上、摂理は必然的に国や民族を超えた規模で展開されることになります。

人類の歴史はしばしば「闘争の歴史」と呼ばれます。宗教的な視点から見るならば、その背後では、神の側とサタンの側との間で、人間と被造世界をめぐる版図の争いが続いてきたと理解することもできます。戦争や国際的な対立、価値観の衝突は、単なる政治的・経済的要因だけでなく、こうした霊的な背景を伴って現れてきたと考えられているのです。

その一つの象徴的な出来事として、20世紀に起こった世界大戦を挙げる見方もあります。先の世界大戦では、欧米を中心とするキリスト教国家群が最終的に勝利を収め、戦後の国際秩序はそれらの国々を軸として再編されました。これを、神の摂理が世界的な段階で進展した結果として理解する宗教的解釈も存在します。

このように現代は、神の摂理が特定の民族や地域にとどまらず、宗教・政治・国際関係を含む世界全体を舞台として展開される時代に入っています。それは同時に、人類全体が、神の側に立つのか、それともサタンの側にとどまるのかという選択を、避けて通れない段階に来ていることを意味しているのです。

宗教religion

宗教religionの写真

 

宗教を英語で religion といいます。この言葉は、ラテン語の religio に由来するといわれており、 接頭語の re は「再び」、ligio は「結びつける」という意味を持つ ligare から派生した語とされています。この語源から、宗教とは「再び結びつける」、すなわち「神と人間との関係を再び結び直す」という意味を持つ言葉であることが推測されます。

その語源が示す通り、宗教とは、一度失われてしまった神と人間との関係を回復するための営みであると理解することができます。言い換えれば、サタンと関係を持ってしまった人間が、本来あるべき神との関係を取り戻していくための歩みこそが、宗教の本質だといえるでしょう。

復帰摂理は、この宗教の本質を個人の救いにとどめず、人類の歴史全体の流れの中で描き出した概念であると位置づけることができます。