聖書と歴史の学習館

第一次世界大戦とロシア革命人類史上初の共産主義国家 ソビエトの誕生

冬宮に突入するボリシェヴィキの赤衛軍
十月革命 - 1917.10.25

ロシア革命とは、ロシアの皇帝専制政治の打倒から、世界最初の社会主義政権の樹立までの連続的な革命の総称です。1905年の第一革命では、皇帝と少数の貴族による専制政治に反発した国民が、宮殿への請願デモを起こし、言論や集会の自由、国会の開設などを政府に約束させました。1917年の二月革命は、第一次大戦中に苦しい生活を強いられた労働者や一部の兵士が食糧と平和を求め起こした革命で、帝政ロシア王朝(ロマノフ王朝)が倒れ、臨時政府が開かれました。同年の十月革命では、レーニンの指導のもと臨時政府が倒され、社会主義革命が達成されソビエト連邦が成立しました。

01/05

レーニンの帰国の背景

イギリスがオスマン帝国にローレンスを送り、謀略戦を仕掛けたように、対するドイツもロシアにレーニン(ウラジーミル・ウリヤノフ)を送り、謀略戦を展開します。レーニンは、12年前の1905年にロシア皇帝の反乱(血の日曜日事件)に参加し、秘密警察に追われてスイスで亡命生活を送っていました。1917年、レーニンはドイツの手厚い支援(ロシアに帰国させるための専用列車まで用意した)を受けてロシアに向かいました。ドイツの狙いは敵国ロシアを内部から突き崩すことでした。


02/05

総力戦に耐えられなかったロシア

第一次世界大戦では、産業革命ではじまった大量生産、大量消費が戦争にも持ち込まれました。当時の最新兵器だった戦車や飛行機、潜水艦なども次々と登場します。さらには、毒ガスなどの大量殺戮兵器も使われ、多くの戦死者が出ました。

各国は短期間で物資を使い果たしてしまったため、勝敗はそれぞれの国の生産力に左右されることになりました。そして、全ての資源や労働力を戦争につぎこむ「総力戦」体制が敷かれ、女性や子供も労働に駆り出されるようになりました。

※19世紀までは、国民と戦争は切り離されており、国民にとって、戦争は遠い存在でした。

この総力戦は、ロシアに大きな打撃を与えました。街からは生活物資が消え、人々は苦しい生活を強いられました。近代化に遅れをとっていたロシアに、総力戦に耐えられる国内体制など、整っていなかったのです。ロシアがドイツやオーストリアと戦う東部戦線では、ロシア軍は武器も食料も底をついており、絶望的な戦いを続けていました。戦争への怒りが頂点に達し、100万の兵士が脱走し、ロシア軍は崩壊しました。


03/05

二月革命 - 1917.2.23(ロシア暦)

2月革命の写真

2月革命 1917.2.23

ロシアではついに、戦争で苦しい生活を強いられた労働者が「パンと平和(食糧と停戦)」を求めて首都ペトログラード(現在のサンクト=ペトロブルク)で食糧危機に起因するデモが起こります。デモが各地に広がっていく中、軍の逃亡者、反乱した兵士たちもこれに合流。ロシア全土にデモが拡大しました。民衆は300年続いた帝政ロシア王朝(ロマノフ王朝)を打倒し、3月1日には、資本家や地主などの支持を受けた「臨時政府」が開かれました。また、社会主義者をリーダーとし、労働者や兵士からなる「ソビエト(評議会)」という組織が各地に結成され、労働者や兵士に支持されました。

二月革命によって、ロシアは資本主義と決別し、戦争をやめると思われました。しかし、臨時政府は帝国時代の方針(※)を引き継いで戦争を続けたため、人々の間には不信感が広がりました。

※臨時政府は、一部の社会革命党のケレンスキーという社会主義者が入りましたが、立憲民主党やメンシェヴィキを中心として組織されたため、ブルジョワジー(資本家階級)に有利な政策を行いました。第一次世界大戦では、多くの軍需産業が儲かったため、ブルジョワジーは戦いが続くことを望んだため、臨時政府は戦争を継続する政策をとったのです。

4月3日、ドイツ軍に守られペトログラードにレーニンが帰国します。ボリシェヴィキ(のちのロシア共産党)の指導者レーニンは「今こそ革命によって社会を変えるチャンスだ」と感じます。レーニンは帰国した翌日には、「4月テーゼ」を発表し、臨時政府との対決姿勢を示します。戦争中止を訴え、パンと平和、そして土地を求めることを明確にします。そして戦争を継続する臨時政府を倒し、すべての権力をソビエトが握るべく革命が必要性を訴えると、これを支持する勢力が増大。こうして、ボリシェヴィキとソビエトは、臨時政府と対立しました。


04/05

十月革命 - 1917.10.25(ロシア暦)

ボリシェヴィキ革命軍による冬宮の攻撃
(山川出版「世界史図録ヒストリカ」より)

レーニンは民衆の支持を集め、一気に革命運動を進めました。そして1917年10月25日、首都で武装蜂起。革命勢力は首都を制圧し、午後9時には、ネヴァ川に浮かぶ巡洋艦オーロラ号の空砲を合図に、ボリシェヴィキ革命軍は臨時政府の最後の拠点である冬宮を攻撃。できたばかりの臨時政府を武力(事実上のクーデター)で一夜にして打倒しました。これが十月革命です。こうしてレーニンは、労働者と農民の政府として、史上初の社会主義政権「ソビエト政権」を成立させ、翌年の1918年には「ロシア社会主義連邦ソビエト共和国」が成立しました。


05/05

革命政党の政策

革命政党は「共産党」と名乗りました。主な政策として、「平和・農民のための土地」を掲げ、
・戦争をやめて平和を取り戻すこと(平和に関する布告)
・地主や王室の土地を没収し、農民に利用権を与えること(土地に関する布告)
を約束し、実行しました。また、重要な産業や鉄道、銀行の国有化をすすめました。

そして約束通り、ソビエト革命政府は1918年3月、ドイツと単独講和(ブレスト=ルトフスク条約)を結び、ドイツに全面降伏し、第一次世界大戦から途中離脱しました。ドイツの思惑どおりの結果となり、これにより、東部戦線が終結し、ドイツは兵力を西部戦線に集中させることができました。

※ドイツ外交官は「ドイツの支援と潤沢な資金がなければ印刷機さえ持たなかった貧しい「ボリシェヴィキ(共産党)」が大規模なプロパガンダを駆使して支持を拡大することなど絶対に出来なかっただろう」と報告しています。

〔出典・参考〕
NHK高校講座「世界史」/山川出版社「要説世界史」/山川出版社「世界史図録ヒストリカ」