聖書と歴史の学習館

アラビアのロレンスイギリスの謀略戦

トーマス・エドワード・ロレンス

アラビアのロレンス(トーマス・エドワード・ロレンス)は、イギリスの軍人・情報将校。第一次世界大戦中、オスマン帝国の圧政に苦しむアラブ人の独立のための反乱軍を支援し、内部からオスマン帝国を崩壊させ、連合国側の戦況を有利にしました。ロレンスは自由を求めるアラブ人の純粋さに心を打たれ、アラブの独立を強く望むようになりました。しかし、イギリスの便宜的かつ矛盾した外交により、アラブの独立は困難となりました。戦後の国際秩序を決める「パリ講和会議」で、ロレンスはアラブの独立国家樹立を強く訴えたものの実現しませんでした。

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イギリスの思惑

20世紀初頭、イギリスは世界中に植民地を持ち、世界の覇権国家としての地位を築いていました。しかし、第一次世界大戦中に西部戦線(※)での膠着(こうちゃく)状態が続くなか、新たな戦術を模索する必要が生じました。

※西部戦線:ドイツ軍と連合軍とが対峙したフランス北東部からドイツ西部国境沿い

1916年、イギリスは敵国ドイツの同盟国であるオスマン帝国に対して破壊工作を仕掛けました。オスマン帝国はドイツとの同盟に基づき、第一次世界大戦に参戦していました。当時のオスマン帝国は1800万人の人口を抱え、トルコ人とアラブ人が主体の多民族国家(※)でした。

※トルコ人、アラブ人が7割を占め、クルド人、ユダヤ人など少数民族なども暮らしていました。

イギリスはオスマン帝国の支配に不満を抱くアラブ人を利用し、彼らの独立運動を支援して内部からオスマン帝国を揺るがそうとしました。この戦術は、イギリスにとって戦争を有利に進めることを目的としていました。同時に、オスマン帝国内にある大規模な油田を掌握することも狙っていました。

イギリスはアラブ人に反乱を起こさせ、オスマン帝国を弱体化させることで、戦局を有利に進めつつ、戦後における地政学的な利益を確保しようとしたのです。


02/06

アラビアのロレンス

イギリスはアラブ有力者との接触を通じて、預言者ムハンマドの血を引くフサインとその御曹司であるファイサルに協力を要請しました。1915年10月に締結されたフサイン・マクマホン協定では、イギリスはパレスチナを奪取する際に、アラブ人の国家建設(独立)を支援することを約束しました。

この協定に基づき、イギリスはアラブの反乱、つまり独立闘争のために、若き情報将校トーマス・エドワード・ロレンスをアラブの元へ送り込みました。ロレンスはイギリスの工作員として活動し、アラブ人と協力しながらオスマン帝国に対する戦略的な支援を提供するとともにともに戦いました。この連携は、後に有名な「アラビアのロレンス」として知られ、彼の活動は歴史的な影響を与えました。


03/06

アラブ人を束ねたロレンス

ロレンスの使命は、アラブ人を支援してオスマン帝国を攻撃し、イギリスの優位性を確立することでした。ファイサルに武器と資金を提供し、オスマン帝国打倒を約束したロレンスは、アラブ独立を信じるファイサルに大きな信頼を得ました。アラビア語に堪能でアラブ文化に通じたロレンスは、ファイサルの指導力を支え、反乱軍を組織し、1916年6月にアラブの反乱が勃発しました。

しかし、アラブ軍は統制が取れておらず、部族社会で国家概念が希薄でした。これに対処するため、ロレンスは自ら軍の前線に立ち、アラブ人を統一し勝利へ導くことを決意しました。彼のリーダーシップにより、アラブ人は次第にロレンスを信頼し、純粋な自由への渇望が固まっていきました。

アラブ服をまとい、アラブの生活様式を受け入れたロレンスは、祖国の勝利よりもアラブの自由を優先するようになりました。こうして、彼は自身の信念と変容とともに、アラビアの解放者として歴史に名を刻んでいきました。


04/06

イギリスの裏切りとロレンスの葛藤

ロレンスはアラブ人の自由を勝ち取るべく奮闘し、アラブ反乱軍はオスマン軍に対して巧妙なゲリラ戦法で打撃を与えました。1917年、アラブ軍はオスマン帝国最大の補給港であるアカバを攻略し、一気に優位に立ちました。

しかし、その後、ロレンスはイギリスの予測外の行動に衝撃を受けます。実は、イギリスはアラブ建国を約束する裏で、フランスと秘密裏に密約を結び、戦後にオスマン帝国の領土を分割する計画を進めていました(サイクス・ピコ協定|1916年5月)。アラブ人には一切知らされておらず、更にはイギリスはユダヤ人にもこの地に国をつくることを約束していました(バルフォア宣言|1917年11月)。これはロスチャイルドなどユダヤの資本家を味方につけるための行動でした。

サイクス・ピコ協定:戦後は、イギリス・フランス・ロシアで、オスマン帝国の領土を分断し、それぞれが支配することが定められたもの。

アラブとイギリスの狭間で、ロレンスの心は激しく葛藤します。彼はイギリスの真の目的を秘密にし、アラブを支援せざるを得ない立場になったのです。イギリスが繰り広げた欺瞞に満ちた約束は、21世紀の今に至るまで続く憎悪の連鎖の出発点となりました。


05/06

アラブ民族の独立宣言

1918年10月、アラブ軍とイギリス軍は協力して、オスマン帝国最大の軍事拠点であるダマスカスを攻撃することになりました。この時、ロレンスが指揮するアラブ軍は、イギリスから特定の約束を取りつけていました。それは、アラブ軍がイギリス軍よりも早くダマスカスに到達した場合、アラブによるダマスカスの支配権を認めるというものでした。

アラブ反乱軍はオスマン軍を打倒し、ダマスカスを陥落させることに成功しました。アラブ軍はイギリス軍よりも早くダマスカスに入城し、アラブ臨時政府を樹立しました。ファイサルが指導する反乱軍が凱旋し、アラブ人の喜びは頂点に達しました。ロレンスもイギリスとともに立ち会い、アラブの夢がついに実現したように見えた瞬間でした。


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幻に終わったアラブの独立

ファイサルによるアラブ民族の独立宣言がなされましたが、協力の見返りに独立を約束していたイギリスのアレンビー将軍は、ファイサルにその約束を果たせないことをはじめて直に伝えました。そのとき通訳をしたのはロレンスででした。ファイサルが帰った後、心がすっかり萎えたロレンスはアレンビー将軍に引退を申し出、失意の中で祖国イギリスへ帰国することとなりました。

大戦終結後、アラブへの攻撃が始まり、同じ陣営にいたフランスがサイクス・ピコ協定に基づき領土獲得のため容赦ない空爆を仕掛けました。さらに、パレスチナの住民の大半がアラブ人であるにもかかわらず、イギリスはバルフォア宣言でユダヤ人の国をつくることを約束していました。このため、アラブ人が一度は独立を夢みた土地に世界中に離散しているユダヤ人がパレスチナに移住してきました。1948年にはイスラエルが建国されました。

1918年11月、第一次世界大戦の休戦が成立しました。戦後の国際秩序を決める「パリ講和会議」にアラブ代表として出席したロレンスは、アラブ独立国家の樹立を訴えましたが、1年後の中東の地図にはアラブの独立国家はありませんでした。シリア・レバノンはフランス、イラク・ヨルダン・パレスティナはイギリスの支配化におく、委任統治領となっていました。ファイサルは連合国に利用された末に見捨てられました。アラブの独立は幻に終わり、アラブ人にとってロレンスは裏切りの英雄となってしまいました。

〔出典・参考〕
NHK高校講座「世界史」/NHK「新・映像の世紀」/wikipedia