聖書と歴史の学習館

第一次世界大戦のきっかけ20世紀の悲劇のはじまり

サラエボ事件の新聞挿絵(イタリア|1914.7.12)
01/06

オーストリア=ハンガリ帝国

第一次世界大戦前夜、オーストリア=ハンガリ帝国(以下「オーストリア」という)は多くの民族を抱え、ヨーロッパの中心部を支配する巨大な国家となっていました。当時の皇帝は、フランツ・ヨーゼフ1世。この皇帝のもとでオーストリアは統一されていました。

1914年のオーストリア=ハンガリ帝国

1914年のオーストリア=ハンガリ帝国


フランツ・ヨーゼフ1世とエリザベスの即位式

フランツ・ヨーゼフ1世とエリザベスの即位式


02/06

ヨーロッパ列強の野望

ヨーロッパ列強の国々は、当時、世界の五分の四を植民地としてしました。そして、新たな植民地獲得競争を展開しており、競って軍備を増強。ヨーロッパは一触即発の状況にありました。

世界の工場といわれ、最も多くの植民地を持つ大英帝国のジョージ5世。世界屈指の富を誇ってたロシア帝国・ロマノフ家のニコライ2世。国家を統一して間もないドイツ皇帝のヴィルヘルム2世。彼らは、新たな領土獲得に野心を抱き、相手のスキをうかがっていました。

ジョージ5世、ニコライ2世、ヴィルヘルム2世の写真


03/06

ヨーロッパの火薬庫 バルカン半島

世界の緊張が高まる中、火種となったのがバルカン半島。この地域は、オーストリアやロシアなどの大国が支配権を狙っていました。しかし、この地に住むセルビアやボスニアなどのスラブ系の人たちは独立を目指していました。こうした背景からバルカン半島は、様々な勢力の衝突が起きており、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていました。

この時点では、争いの舞台はあくまでバルカン半島でした。そのため、ヨーロッパ列強にとっては、単なる国外の出来事にすぎないと考えていたようです。


04/06

サラエボ事件

第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件を描いた絵画

第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件 - 1914.6.28

しかし1914年6月28日、事態を急展開させる事件が起きます。オーストリア(ボスニア)のサラエボで、訪問中のオーストリアの帝位継承者夫妻(皇太子フェルディナンド夫妻)が暗殺されたのです。犯人は帝国からの独立を叫ぶセルビアの民族主義者(ガヴリロ・プリンツィプ)。オーストリアの支配に反発する秘密結社の一員でした。


05/06

戦争への発展

サラエボ事件で亡くなった皇太子の叔父オーストリアの皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、報復のため、ただちにセルビアに宣戦布告しました。するとバルカンに領土的な野心を持つロシア帝国は、セルビアへの支援を表明。ロシア皇帝ニコライ2世は、兵士を総動員して戦争に備えました(ロシア動員令/1914年7月)。

ヨーロッパの列強は安全保障のため軍事同盟を結んでいました。イギリスはフランスとロシア、ドイツはオーストリア、オスマン帝国と結び、二大陣営に分かれていました。

1914年8月、オーストリアの同盟国ドイツはロシアとフランスに対し宣戦布告しました。そして、8月4日、ドイツは突如、中立国ベルギーに侵攻。ドイツ軍は市民にも銃を向けました。150万を超えるベルギー人が国外へ逃れました。

同年8月ベルギーと軍事条約を結んでいたイギリスが参戦に踏みきりました。国中が騒然とする中、50万の若者が出征を志願しました。40年の平和が続いたヨーロッパでは、戦争の記憶は薄れ、若者は戦争をロマンチックな冒険と考えがちだったようです。誰もが戦争は数ヶ月で終わると信じていました。

こうして各国の連鎖反応を呼び起こし、戦争を望まない他の国々も軍事同盟に縛られ、30カ国を超える国々が戦火に巻き込まれ、大規模な戦争へと発展していきました。第一次世界大戦において、ヨーロッパではドイツを中心とした同盟国側(ドイツ、オーストリア、オスマン帝国など)とこれに対抗する連合国側(イギリス、フランス、ロシアなど)に分かれて、激しい戦いとなりました。


06/06

クリスマスまでには帰れる

第一次世界大戦では、参戦国の指導者から出征兵士まで誰もが、この戦争は数ヶ月で終結すると考えていました。人々は勝利を楽観し、自発的に喜んで出征した兵士も多くいました。

人々は「クリスマスまでには帰れる」と言って、兵士を盛り立てて戦場へ送り出します。兵士たちも「クリスマスにまた…」と言って出征していきました。戦争が始まってわずか1ヶ月のうちに、ヨーロッパでは、1000万人以上が動員されたといわれています。

出征するドイツ兵士

1914年、出征するドイツ兵士。貨車には「パリへの旅行」と書かれている。参戦国の誰もが短期間で戦争が終わると信じていました(写真:Wikimedia Commons)

しかし、現実の戦いは一進一退を繰り返し長期化。戦況は泥沼化し、それまでにない大規模で悲惨な戦争になりました。結局、ドイツが降伏し、休戦協定が成立したのは、1918年11月11日。4年間にわたって消耗戦が続けられ、死者およそ1700万人、負傷者は2000万人に及びました。

〔出典・参考〕
NHK「映像の世紀/第2集」/wikipedia