
目に見えない存在の認識 いかにして信じるか
不可視な存在の認識
私たちは、目に見える存在について疑うことはほとんどありません。太陽や月、自然界の動植物、目の前のパソコンやスマートフォンなど、目に見えるものの存在を否定する人はいないでしょう。
しかし一方で、目に見えない存在については、信じるかどうかが人によって異なります。たとえば、空気は目に見えませんが、その存在を疑う人はいません。私たちは呼吸を通じて空気を感じ、風や音の伝わり方によってその存在を確かめています。
ところが、神や霊界、魂といった目に見えない存在については、信じるか信じないかが人それぞれです。
では、私たちはなぜ、目に見えないものを信じることができるのでしょうか。ここでは、その理由について考えてみたいと思います。
目には見えないけれど、確かにある存在 ― 空気
目に見えないものの中でも、誰もがその存在を疑わない代表的なものが「空気」です。私たちは日常的に空気の存在を意識することは少ないかもしれませんが、「空気なんて存在しない」と言う人はいません。
その背景には、幼いころから「人間は空気を吸って生きている」「空気がなければ生き物は生きられない」と、親や先生から繰り返し教えられてきた経験があるでしょう。こうした教育的な刷り込みも、空気の存在を信じる理由のひとつです。
しかし、もう少し科学的に考えると、私たちは空気そのものは見えなくても、「空気があるからこそ起きる現象」を通して、その存在を認識しています。たとえば、空気があるから雲ができ、雷が鳴り、雨が降り、虹がかかります。これらはすべて、空気という存在がなければ起こりえない自然現象です。

空気がなければ、雲の発生や降雨などの気象現象は起こりません
空気が存在するからこそ引き起こされるさまざまな現象を、私たちは視覚や聴覚を通じて感じとることができます。だからこそ、たとえ空気そのものは目に見えなくても、その存在を信じることができるのです。
※空気は、酸素、二酸化炭素、水蒸気などさまざまな成分が混ざり合った「混合物」として、科学(化学)の分野でも定義されています。
目には見えないけれど、確かに存在する ― マイクロ生物
細菌やウイルスといった微生物(マイクロ生物)は非常に小さく、肉眼では見ることができません。そのため、私たちは日常生活の中でその存在を意識する機会はあまりないかもしれません。
しかし、これらの微生物は、私たちの健康や生活に深く関わっています。たとえば、コレラ菌やサルモネラ菌、インフルエンザウイルスや新型コロナウイルスなど、病気を引き起こす病原体として知られているものもあり、こうした微生物の存在を疑う人はいないでしょう。
私たちは、目に見えない微生物が存在するからこそ引き起こされる症状や現象 ― 発熱や下痢、感染拡大など ― を経験し、間接的にその存在を実感しています。つまり、目に見えなくても、微生物による影響を体感的に認識しているからこそ、その存在を信じることができるのです。
目には見えないけれど、みんなが信じている ― 時間
「時間」もまた、目に見えない存在のひとつです。しかし、「時間なんて存在しない」と主張する人はほとんどいません。それはなぜでしょうか。
時間そのものは目に見えませんが、私たちは日々の暮らしの中で、時間の「流れ」や「経過」をさまざまな形で感じ取っています。たとえば、時計の針が進んだり、太陽が昇って沈んだり、人の成長や季節の変化など、時間があるからこそ起こる現象が私たちの身の回りにはあふれています。

時計は目に見えない時間をビジュアル化している
つまり、時間が存在するゆえに生じる変化や動きを、私たちは視覚的・体感的に受け取りながら日常を過ごしているのです。だからこそ、たとえ時間そのものを直接見ることはできなくても、時間の存在を疑うことなく信じることができるのでしょう。
目には見えないけれど、確かに届いている ― 電波と電子
電波もまた、私たちの目には見えない存在です。しかし、「電波なんて存在しない」と考える人はほとんどいません。それはなぜでしょうか。
テレビやラジオ、携帯電話、Wi-Fiなど、現代の通信機器はすべて電波によって情報をやりとりしています。電波そのものは目に見えませんが、テレビに映る映像や、ラジオから聞こえる音声、スマートフォンでの通話やインターネット接続など、電波があるからこそ生じる現象を私たちは日々体験しています。つまり、視覚や聴覚を通じて、電波の存在を間接的に感じ取っているのです。
同じように、電流を生み出す「電子」も目には見えません。私たちは電子の流れ(電流)を直接見ることはできませんが、その影響によって何が起きるかはよく知っています。たとえば、乾電池に豆電球をつなげると光が灯り、スマートフォンやパソコンなどの電子機器が動作します。これらの変化は、目には見えない電子の動きが引き起こしているのです。
このように、電波や電子は目に見えなくてもも、それによってもたらされる変化を私たちが日常的に体験しているため、その存在を疑うことなく信じることができるのです。
目には見えないけれど、現代科学が導いた存在 ― 素粒子
素粒子とは、物質を構成する最も小さな単位のひとつであり、そのあまりの微細さゆえに、私たちの目では決して見ることができません。しかも、その性質は一般の人々にとって理解が難しく、「不可解な存在」と感じられることもあるでしょう。
そんな素粒子のひとつである「ヒッグス粒子」が、2013年に発見されたときは、世界中で大きな話題となりました。多くの人が、その存在を疑うことなく受け入れたのは、世界のトップ科学者たちがその発見を公表し、各国のメディアが大々的に報道したことが背景にあります。
もちろん、科学者たちもヒッグス粒子そのものを直接「目で見た」わけではありません。ヒッグス粒子が崩壊するときに発する非常に微弱なエネルギーの信号を、高度な検出装置によって観測できたことで、「確かにヒッグス粒子が存在する」と結論づけたのです。
つまり、ヒッグス粒子が存在するからこそ現れる現象を、科学的な方法で捉えることができた――それが存在を信じる根拠となっています。
そして私たち一般の人々は、自ら観測することができなくても、信頼に値する専門家たちの検証結果や発表を通じて、その存在を認めているのです。
なぜ、見えないものを信じることができるのか
これまで見てきたように、私たちは目に見えない存在であっても、それが「存在するがゆえに生じる現象」を視覚や聴覚などの感覚で体験できるとき、その存在を信じることができます。
たとえば、空気があるからこそ風を感じ、電波があるからこそテレビやラジオが映り、時間があるからこそ季節が移ろう。そのように、不可視なものでも、それがもたらす影響や変化が私たちの五感――視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚――のいずれかを通じて感じ取れるならば、「見えないけれど確かにある」と自然に受け入れることができるのです。
また、人は「信頼している相手から教えられたこと」を信じる傾向があります。たとえば、両親や学校の先生、あるいは科学者や専門家のように、尊敬や信頼を寄せている人々が語る内容であれば、たとえそれが不可視なものであっても、私たちはほとんど疑うことなく受け入れることが多いのです。
目には見えない、でも確かに感じられる ― 心
では、「心」はどうでしょうか。心もまた、目に見えない存在です。しかし、その存在を疑う人はほとんどいません。心は、たとえば表情やしぐさ、言葉や声の調子といったかたちで外にあらわれることがあります。誰かが笑っているとき、その笑顔の奥には「嬉しい」「楽しい」といった心の動きがあると私たちは自然に理解します。

心が喜びを感じると笑顔になる
また、私たちは自分自身の中に、怒りや悲しみ、喜びや楽しさといったさまざまな感情が湧き起こるのを日々感じています。これらの感情は、目に見えるものではありませんが、確かに「心があるからこそ」生じるものです。
心には、「知性」「感情」「意志」といった機能があり、それらが絶えず働いています。皮膚が熱さや冷たさを感じるように、心もまた、さまざまな感情を感じ取っているのです。
もし、心の存在を否定する人がいたとしても、「あなたは心がない!」と言われれば不快に感じ、「あなたの心は美しいですね」と言われれば嬉しくなるでしょう。そのように反応してしまうのは、自分の中に「心」が存在すると無意識に信じているからにほかなりません。
心はたしかに目には見えない存在ですが、私たちはそのはたらきを日々体感し、他者の心にも反応しながら生きています。だからこそ、心の存在は「見えないけれど確かなもの」として、誰もが自然に受け入れているのです。
精神と心の違い
「精神」と「心」は、日常的には似たような意味で使われることがありますが、実は少し役割が異なります。
たとえば「精神修業」とはよく言いますが、「心修業」とはあまり聞きません。これは、「精神」が鍛えることのできるもの、つまり鍛錬によって成長したり、強くなったりする性質を持つと考えられているからです。
一方で、「心」とは、思いやり、優しさ、感動、悲しみなど――精神のはたらきとして私たちが感じる感情や状態を指して使われることが多い言葉です。言い換えれば、精神という土台の上に、心の動きがあらわれるというイメージです。
そのため、精神をしっかりと鍛え、成長させることによって、心のあり方――たとえば他人への思いやりや、ものごとに感謝する気持ちなど――も豊かになっていくと言われています。
目には見えないけれど、信じられてきた存在 ― 霊魂や神
ここまで、空気、電波、心など、目には見えなくても確かに「ある」と信じられている存在について見てきました。では、「霊魂」や「霊界」、そして「神」の存在についてはどうでしょうか。
霊的な存在や神は、科学的な装置で観測したり、目に見えるかたちで確かめることはできません。それでも、世界中の人々が古くからその存在を信じ、祈り、礼拝し、心の拠り所としてきました。
● 感じる経験があるから、信じられる
大切な人を亡くしたとき、ふと心が導かれたように感じる瞬間、説明できない奇跡のような出来事――こうした体験の中に、私たちは「見えない世界」の存在を感じ取ることがあります。それは、心の中に語りかけてくるような、深く、静かな確信です。
そしてこうした体験は、特定の人に限ったものではありません。誰もが一度は「目には見えないけれど、確かに何かがある」と感じたことがあるのではないでしょうか。
● 祈りと儀式の歴史が示すもの
人間は、何千年も前から神に祈り、霊を敬い、祭りや儀式を行ってきました。古代の遺跡や神殿、宗教的な絵画や歌、神話や伝承に至るまで、文化のあらゆる側面に「目に見えない存在」への信仰が息づいています。
もし、神や霊的存在がまったくの幻想であり、誰も感じたことがないものであったなら、人類はこれほどまで長く、深く、それらに祈り続けてはこなかったはずです。存在しないものに向かって、祈ったり、儀式を行ったりするのは不合理であり、文明の発展とともに自然に廃れていったことでしょう。
にもかかわらず、こうした信仰や実践が、時代や文化を超えて綿々と受け継がれてきたこと自体が、「何かがある」と人間が感じ取ってきた証なのです。
霊魂や神の存在は、科学的に説明することはできなくても、人間の感性と歴史が積み重ねてきた「目には見えないけれど確かにある」ものです。
古代から続く祈りの文化、心の奥深くに響く直感的な確信、そして信頼する人から受け継がれた教え――そうした積み重ねの中に、霊的な存在への信頼が育まれてきました。
私たちが見えないものを信じる力は、単なる思い込みではなく、「感じる心」「つながりを求める心」「見えないものと共に生きる知恵」に根ざした、人間らしさそのものなのかもしれません。