聖書と歴史の学習館

生と死の原理的解釈原理講論 復活論

聖書における生死に関する聖句を、一般的な生死の概念で解釈しようとしても、無理が生じます。聖書固有の生死の概念があるからです。原理講論では、聖書の生死の概念をより本質的に解明しています。

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生と死の原理的解釈

原理講論では、人間は肉体と霊人体からなっており、肉身の寿命が切れたとき、霊人体は肉身を脱ぎ、霊界で永住するという基本原理が貫かれています。青虫が蛹となり、殻を脱いで蝶となるように、人間も地上において目的を果たした後、肉身を脱いで、霊界に旅立つように創造されているのです。

死の起源は、人間始祖の堕落、すなわち、サタンとなった天使長と人間始祖が血縁関係を結んでしまったことであり、それはすなわち、神の主管圏を離れ、サタンの主管圏に落ちたことを意味します。結局、生とは「神の主管圏内にあること」、死とは「サタンの主管圏内にあること」と定義されます。これは、聖書の奥義を紐解く鍵となる本質的な内容です。

霊的死のイメージ図

 


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わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる

わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。

新約聖書/ヨハネによる福音書11章25-26節

この聖句の「たとい死んでも生きる」は、肉的に死んだ人間が、墓から起き上がり、生き返る(蘇る)という意味ではありません。また、「いつまでも死なない」は、生きている人がイエスを信じれば、永遠に肉体が滅びないという意味ではありません。「神やイエスを信じるものは、寿命が切れて、肉的に死んだととしても、霊人体は、神の主管圏内にあるので『霊的に』生きる(霊人体は生きる)。また、肉的に生きていて、信じる者はいつまでも『霊的に』生き続ける(霊人体が永遠に生き続ける)。」という意味です。

霊的生のイメージ図

 


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死なんとするものは生きる

自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。

ルカによる福音書17章33節

この聖句は「生きんとするものは死に、死なんとするものは生きる」として広く知られています。

紀元後まもなく初代キリスト教はローマ帝国を中心に広まりました。しかし、帝国から激しい迫害を受け続け、神やイエスを否定しない多くのクリスチャンたちは殺害されてしまいました。命を省みず、ひたすら神を信じるものは、たとえ肉的に死んだとしても、霊的には永遠に生きる(霊人体は永遠に生きる)というイエスの言葉を信じ、彼らは処刑の道を選択したことが推察されます。


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復活とは

よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。 新約聖書「ヨハネによる福音書」5章24-25節 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。新約聖書「コリント人への第一の手紙」15章 22節

上記の聖句の「生」と「死」は、すべて「霊的な」生死を意味している。

新約聖書には「死人が蘇る」と読み取れる多くの聖句が見られます。これは肉的に死んだ人が、肉的に生き返るのではなく、霊的に死んでいる人(堕落している人)が霊的に生き返る(復活する)という意味になります。そもそも、寿命が切れて、土に還り、分解されてしまった人間が再び原状どおりに復活することは、科学的な視点からも不可能です。死の概念を肉的死のみで捉えて、聖書を文字通り解釈しようとすれば本質を見失う可能性があります。

原理講論によると「復活」とは「人間が堕落によってもたらされた死、すなわちサタンの主管圏内に落ちた立場から、復帰摂理によって神の直接主管圏内に復帰されていく、その過程的な現象」定義されています。換言すれば「堕落人間が創造本然の姿に復帰する過程的な現象」であり、「死から命に移っていく現象」です。人類歴史は、創造本然の人間の姿、本然の社会、本然の世界に戻ろうとする「復帰の歴史」といえます。


復活とは、堕落人間が創造本然の姿に復帰する過程的な現象のこと

 

〔出典・参考〕
日本聖書教会「新約聖書」/世界平和統一家庭連合「原理講論」/倉原克直氏「聖書の世界」