復活論

聖書における生死の概念

聖書には、「死」と「生」を含む聖句が少なくない。「たとえ死んでも生きる」、「死人の中から蘇った」など。それらは、科学が進歩した現代に生きる我々にとっては到底理解できない内容になっている。聖書が真理であるならば、それらをどのように解釈すればよいのだろうか。

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一般的な「死」と「生」の概念では解読できない

園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないから。旧約聖書「創世記」3章3節

この聖句は、神が人間始祖アダムとエバに下した命令である。しかし、蛇の誘惑に負けたエバは、園の中央にある「善悪を知る木」の実を食べてしまった。しかし、死ぬことはなく、人間は星の数ほど増え、人類歴史は連綿と続いてきた。

あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。新約聖書「ヨハネの黙示録」3章1節

聖書には、「死」と「生」に関する聖句が多くある。しかし、そのほとんどは、上記の聖句のように一般的な死の概念(肉体の寿命が切れる)で、解読しようとしても、無理が生じる。しかし、聖書に真理を求めるならば、聖書における「死」と「生」の概念をはっきりと知っておく必要がある。

聖書における「死」の概念

人間は、肉体と霊人体(霊魂)からなっている。聖書における死の概念には、肉体の寿命が切れる死を意味する「肉的死」だけでなく、霊人体の死を意味する「霊的死」がある。霊的死とは、人間が矛盾性を内包している状態をいう。ここで、人間の矛盾性とは、人間始祖が善悪を知る木の実を食べることにより、善と悪の相反する二面性を持つようになった状態、すなわち人間の堕落状態を意味する。

創造本然の世界には、善と悪という概念すらなかった。創造本然の状態を敢えて「善」と定義するならば、神の戒めを破ることにより「悪」の要素が後天的に入り込んでしまったことになる。結果として、この世には善と悪という対極をなす概念が生じ、人間は、両者を知る存在となった。この状態が「霊的死(堕落)」である。

人間始祖から現代に至るまで、人間は「霊的死」の状態にあり、霊的死人がこの世界を築き上げてきた。

またほかの人に、「わたしに従ってきなさい」と言われた。するとその人が言った、「まず、父を葬りに行かせてください」。彼に言われた、「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」。新約聖書「ルカによる福音書」9章59-60節

イエスは弟子とともにエルサレムに向かっていた。その途上で、行き交い、出会った人たちに、神の教えに従うよう宣教活動をしながら歩んでいた。ちょうど、おとぎ話「桃太郎」で、桃太郎が鬼ヶ島に向かう途上で家来を増やしていくような状況であろう。ある人に声を掛けたところ、最近父が亡くなったので、葬式を済ませてからイエスに従う旨を伝えた。そのときのイエスの言葉が上記の聖句である。

この聖句において「死人を葬ることは…」の「死人」は「肉的な死人/亡くなった父」を意味し、「死人に任せておくがよい」の「死人」は親戚など、葬式を執り行う「堕落した人間」、すなわち「霊的な死人」を意味している。

上記の聖句の解釈としては、「あなたの父(肉的死人)の葬式は親戚など(霊的死人)に任せておけばよい。」が妥当であろう。


〔参考文献〕
日本聖書教会「新約聖書(新共同訳/口語訳)」/新日本聖書刊行会「新改訳聖書第三版」/世界平和統一家庭連合「原理講論」/倉原克直氏「聖書の世界」