聖書と歴史の学習館

パウロ キリスト教最大の伝道者

Saint Paul
Pompeo Girolamo Batoni

パウロ(紀元前後~65年頃)は、キリスト教が普遍的な世界宗教となる上で大きく貢献した人物の一人です。入教前のパウロは厳格なユダヤ教徒であり、キリスト教徒を異端視し、徹底的に迫害する立場にいました。しかし、イエスの声を聞いたことをきっかけに劇的に回心(改宗)しました。その後、迫害を受けながらも、布教の最前線に立って活躍し、「キリスト教最大の伝道者」といわれるまでになりました。紀元65年頃、皇帝ネロに処刑されて殉教。パウロの書簡は新約聖書に記録されています。

01/06

キリスト教徒を迫害していたパウロ

パウロ(※1)は小アジア(※2)のタルソスで、裕福な家庭に生まれ育ちました。エルサレムでファリサイ派(※3)の学校で厳格な教育を受けた(※4)ユダヤ教徒でした。

パウロは、ファリサイ主義を最も重要視し、イエスの教えを信じる人々を異端者とみなし、根絶しようと努力する日々を送っていました。キリスト教信者の家々に押し入り、教会を荒らし、男女を問わず連れ出し、縛り上げて牢に送っていました。多くのキリスト教信者が大変悲しんだステファノが石打の刑により殉教したときもパウロが係わっていました。

(使徒言行録8章1節~3節、使徒言行録9章1節~2節)

※1:「パウロ」はギリシア名で、ヘブライ名は「サウロ」です。パウロが宣教旅行に行くようになった頃、ギリシア名の「パウロ」を名乗るようになったといわれています。

※2:アジアの西端部にあり地中海と黒海に挟まれた半島で、トルコ共和国の主要部を占める地域となっています。古代ギリシア人はアナトリアと呼んでいました。

※3:ファリサイ派は、ユダヤ教の律法(戒律)を厳格に解釈し、それを全力で実践しようとしていたユダヤ教のエリートグループです。当時のユダヤ人を指導していました。

※4:パウロは、エルサレムのラビ(=先生)、ガマリエルのもとで教育を受けました。


02/06

イエスに出会ったパウロ

ステファノが石打ちの刑で殉教した翌年(紀元38年頃)、パウロはシリアのキリスト教徒を逮捕するため、ダマスコ(※)に向かっていました。ダマスコでキリスト教徒を見つけたら、男女を問わず、縛り上げ、エルサレムに連行するつもりでした。

しかし、ダマスコの近くまで来た時、突然、パウロに天の光が降り注ぎました。そして、まばゆい目がくらむような光の中に現れたのは、パウロの大敵であるイエスでした。

Conversion of Saint Paul Michelangelo Buonarroti(1542年製作)
Web Gallery of Art

イエスはなぜ自分を迫害するのかをパウロに尋ねました。そしてダマスコに行って次の指示を待つよう告げました。イエスが立ち去ると、パウロは自分の目が見えなくなっていることに気づきました。そして、同行者に手を引かれて町に入りましたが、3日間飲み食いすらできませんでした。

※ダマスコ:現在のシリアの首都ダマスカス

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New Testament

サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

使徒言行録9章3節~9節 
日本聖書教会「新約聖書」

03/06

パウロの回心

3日後、ダマスコのキリスト教徒アナニアは、神の命令に従い、不本意ながらもパウロの目を治しました。この経験によってパウロは回心し、イエスはメシアであり神の子であると信じるようになりました。

目が見えるようになったパウロは、その場でアナニアより洗礼を受け、ダマスコに滞在しました。そして、数日後にはダマスコの会堂をいくつも訪問し「イエスこそ神の子である」ことを人々に説きました。アプロはイエスに出会ったことで、キリスト教徒を迫害する立場から劇的に回心し、熱き信者として生まれ変わったのです。

Ananias restoring the sight of Saint Paul <br /> Pietro De Cortana(1631年製作)

Ananias restoring the sight of Saint Paul 
 Pietro De Cortana(1631年製作)

New Testament

ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」

使徒言行録9章10節~16節
日本聖書教会「新約聖書」
New Testament

そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。
そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。サウロ、ダマスコで福音を告げ知らせるサウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。

使徒言行録9章17節~20節
日本聖書教会「新約聖書」

04/06

パウロの精力的な伝道活動

キリスト教を迫害していたパウロの回心に驚き、疑う人や恐れる人も多くいました。それでもパウロは、イエスの正しさを伝え歩き続けました。パウロの豹変した行動は、ユダヤ人共同体の中に大きな混乱を巻き起こし、それまでパウロの味方だったユダヤ教信者たちは、彼を危険人物とみなして命を狙うようになりました。

そのため、パウロは夜逃げをせざるを得なくなりました。籠に乗せられて町の城壁から吊り降ろされ、ダマスコを脱出。エルサレムのイエスの弟子たちのもとに行きましたが、恐れられました。しかし、指導者の1人バルナバの説得によって、弟子たちは、しぶしぶパウロを受け入れました。

その後、パウロはバルナバとともに、およそ1年の間、アンティオキアでイエスの教えを人々に伝えました。さらに、パウロはバルナバや後の同行者シラスとともにに、現在のトルコからギリシアにかけての町々に教会を創設しました。

New Testament

これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。
かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。

使徒言行録9章21節~24節
日本聖書教会「新約聖書」
New Testament

そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。
こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。

使徒言行録9章25節~31節
日本聖書教会「新約聖書」

05/06

パウロの宣教旅行

イエスの教えを広めるべく、パウロは小アジアやギリシアへの宣教旅行に3回出かけました。1回目はバルナバとともに、キプロス島を中心に布教活動を行い、2回目以降はギリシアの地まで足を伸ばしています。パウロはギリシア語を話すことができ、ローマの市民権もあったので、ユダヤ人以外の異邦人へイエスの教えを伝えることができました。なお、パウロはもともとヘブライ名のサウロを名乗っていましたが、このギリシアへの宣教旅行のときから、ギリシア名のパウロに改名したといわれています。

各地で、鞭で打たれたり石を投げられたり、不法な監禁や投獄など、度重なる迫害にも、パウロは少しもひるむことなく立ち向かって行ったと伝えられています。

パウロが3回目の旅行から戻ったとき、敵対するユダヤ人によって捕らえられ、裁判にかけられました。パウロは自らローマ皇帝に上訴して無罪を訴えたいと希望し、ローマへ送られました。

※パウロはローマの市民権を持っていたため、皇帝へ上訴することができました。

ローマでは、兵士に監視され、軟禁状態であったものの家を借りて、比較的自由に過ごすことができました。そんな中で、パウロは各地のキリスト教徒たちに励ましの手紙を書き、布教と信仰の強化に努めました。

パウロが書いた信者たちへの手紙は「新約聖書」に記録されており、「新約聖書」の27書のうち13書の手紙が、パウロによって書かれたといわれています。



06/06

パウロの殉教

しかし、そのような生活も二年間で終わりを告げることになります。紀元64年7月18日、ローマで大火が起こりました。そして、皇帝ネロは、大火の原因をキリスト教徒による放火と断定。そして、ローマ市内に在住するキリスト教徒たちを逮捕、厳罰に処しました。その中にパウロも含まれており、紀元65年頃、パウロは斬首されて殉教したと伝えられています。

パウロは12使徒の一員でもなく、生前のイエスに一度も会ったことはありませんでした。しかし、イエスの声を聞き、目が癒やされる奇跡によって回心しました。パウロは、命をかけてキリスト教を世界中に布教した偉大な功労者「キリスト教最大の伝道者」といわれています。

Saint Paul

パウロの生涯

パウロは、ユダヤ人でありながら、ローマの市民権を持っていました。彼はヘブライ語とギリシャ語を話すことができました。つまり、日本人でありながらアメリカ国籍を持ち、英語も流暢に話すことができるような人物です。パウロは国際的な人物でした。宣教活動中、何度か逮捕されましたが、裁かれなかったようです。それは彼が大国ローマの市民権を持っていたからです。アメリカ国籍を持った人が日本では簡単には裁けないのと同じような理由でしょう。パウロは、エルサレムの有名な先生(ラビ)であるガマリエルのもとで教育を受けた厳格なユダヤ教信者(パリサイ派)でした。彼はいわばユダヤ教のエリートでした。そのため、大きな宣教活動を行うことができました。たとえば三度の海外宣教旅行(各数年間)を行ったり、ユダヤのアグリッパ王と会見して、王の前で自身が導かれた証や信念を堂々と伝え、王にも影響を与えたようです。最終的にはイエスの福音を大国ローマにまで広めました。現在、キリスト教は世界宗教となっていますが、パウロの宣教活動がなければ、キリスト教は単なる地域的な宗教にとどまっていたかもしれません。

●紀元前後
小アジアのタルソスで生まれ育つ。ファリサイ派に属し、キリスト教徒を迫害。

●紀元30年頃
イエスの復活

●紀元32年頃
ダマスコに向かう途中、復活したイエスに呼びかけられる。回心して洗礼を受ける

●紀元45年~48年
第1回宣教旅行

●紀元48年末~52年
第2回宣教旅行

●紀元52年~57年
第3回宣教旅行
エフェソで捕囚生活

●紀元57年
エルサレムで逮捕される。カイサリアで捕囚生活

●紀元60年~62年
裁判のためローマへ護送され、捕囚生活を送る

●紀元65年頃
ローマで殉教