洗礼ヨハネの否認

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洗礼ヨハネの否認

洗礼ヨハネの否認

洗礼ヨハネは、イエスがメシヤであること、そして、神からメシヤの前に遣わされ、その使命「メシヤの道をまっすぐにすること」も悟っていました。

そして、イエスは、洗礼ヨハネを、まさしく、ユダヤ人たちが待ち望んでいたエリヤであると証しました。しかし、洗礼ヨハネ本人は、再臨のエリヤであることを悟ることができず、律法学者(ファリサイ派)に、エリヤであることを否認してしまいました。

メシヤであるイエスは次のように証しています。

あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。

新約聖書/マタイによる福音書11章14節(新共同訳)

一方、洗礼ヨハネは次のように証言しています。

彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。

新約聖書/ヨハネによる福音書1章21節(新共同訳)


エルサレムの混乱

イエスが遣わされた当時のユダヤ人たちの願いは、メシヤの降臨でした。しかし、それ以上にユダヤ人たちが渇望してきたのは、エリヤの再臨でした。それは、神は預言者マラキを通じて、メシヤの降臨に先立ち、彼の道をまっすぐにするために、預言者エリヤを遣わされると、約束されていたからでです。

ところが、エリアが再臨のないまま、イエスが突然メシヤを自称して現れたため、エルサレムのユダヤ人たちに混乱が起こったのです。


ユダヤ人たちの判断

イエスは、片田舎のナザレの貧しい大工の家庭で成長した無学な青年でした。一方、洗礼ヨハネは当時の名門の出である祭司ザカリヤの子です。出生時の奇跡やその後の修道生活などを見て、ユダヤ人たちは、洗礼ヨハネがメシヤでないかと思うほどに、素晴らしい人物に見えていました。

そのため、洗礼ヨハネのことをエリヤであると言ったイエスの証言よりも、自分はエリヤではないと否認した洗礼ヨハネの言葉の方を、ユダヤ人たちは信じたのでした。

ユダヤ人たちが、洗礼ヨハネの言葉を信じるようになったため、エリヤはまだ来ておらず、その後に遣わされるメシヤもまだ降臨されていないという判断になりました。聖書に「メシヤに先立ち、エリヤが降臨する」と預言されているからです。ユダヤ人にとっては、聖書は絶対的なものであるため、聖書を信じないわけにはいかず、イエスを信じない道を選ぶ以外に仕方がなかったのです。そして、多くのユダヤ人たちは、イエスの証言はメシヤを自称するための偽証のように思ってしまったのです。


本来の摂理

当時の祭司長やユダヤ人たちは、洗礼ヨハネを崇敬し、彼をメシヤであると信じさせるまでに至っていました。もし洗礼ヨハネが、イエスが証言されたとおり、自分が正にそのエリヤであると証言したならば、メシヤを迎えるためにまずエリヤを待ち望んでいたユダヤ人たちは、当然、その洗礼ヨハネの証言を信じるようになったはずです。

しかし、最後まで自分はエリヤではないと主張したため、洗礼ヨハネ自身も含めた全ユダヤ人たちがイエスの前に出る道をふさいでしまう大きな原因となりました。

結局、ユダヤ人のイエスに対する疑惑は深まり、ついには、イエスが十字架の道を行かなければならなくなった大きな要因となったのです。

※洗礼ヨハネの否認により、イエス自らが洗礼ヨハネの使命を代行しなければならなくなりました。また、洗礼ヨハネは、イエスの第一の弟子と選ばれましたが、責任を完遂し得なかったため、その代わりにペテロが選ばれました。


洗礼ヨハネの不信

その後、聖書の中には、私たちが理解に苦しむような発言が記録されています。洗礼ヨハネはイエスをメシアであると信じ、証言したにもかかわらず、イエスに対して、本当にメシヤなのか、不信を抱くようになってしまったのです。

ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた。そこで、ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、主のもとに送り、こう言わせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」二人はイエスのもとに来て言った。「わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』とお尋ねするようにとのことです。」

新約聖書/ルカによる福音書7章18節~20節(新共同訳)

これを聞いたイエスは悲憤やるかたない思いとなり、ご自身がまさしくメシアであるとは答えることができず、次のように答えられました。

そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

新約聖書/ルカによる福音書7章21節~23節(新共同訳)

洗礼ヨハネがイエスの奇跡を知らないはずはないのに、このように答えられた理由は、イエスが行われたことを洗礼ヨハネに再び想起させることにより、イエスが誰であるのかを知らせるためであったと言われています。

洗礼ヨハネは当時のユダヤ人たちが、メシヤあるいはエリヤ、預言者ではないかと考えるくらいに立派な人でした。しかし、いくら立派な人であっても、メシヤ(イエス)につまずき、使命を果たすことができなければ、何の幸いもないことを、「わたしにつまずかない人は幸いである。」という間接的な表現を通して、洗礼ヨハネの運命を審判されたと言われています。

※聖書「つまずく」=信じないこと、不信仰に陥ること

ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められた。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。(途中略)では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。(洗礼ヨハネは)預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人(洗礼ヨハネ)のことだ。言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

新約聖書/ルカによる福音書7章24節、26節~28節(新共同訳)

※「神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」…多くの預言者たちは、将来、降臨されるメシヤを、時間的な距離をおいて預言されました。しかし、洗礼ヨハネはイエスと同じ時期に生まれ、直接的にメシヤを証言し、メシヤに仕える立場でした。そのため、洗礼ヨハネは過去のどんな預言者よりも偉大な人物でした。
しかしながら、洗礼ヨハネは、イエスに対して不信を抱いてしまいました。神の国に入ることができる人たちは、どんな小さな者でもイエスを信じているはずなのに、洗礼ヨハネは、イエスに対して不信を抱いてしまったため、神の国のどんなに小さな者よりも小さい立場になってしまうことを象徴的に言われていると解釈されています。


〔参考・引用〕
日本聖書教会「新約聖書(新共同訳/口語訳)」/新日本聖書刊行会「新改訳聖書第三版」/統一教会「原理講論」