聖書と歴史の学習館

邪心と不義なる欲望欲望を満たすことが、幸福につながるとは限らない

「本心と邪心」では、人間の心には、より善く生きたいと願う「本心」がある一方で、それとは反対方向へ心を動かす「邪心」も存在する、という考え方を紹介しました。邪心から生じる「不義なる欲望」は、満たされた瞬間には快感や利益をもたらしても、良心の呵責や人間関係の破壊などを通じて、かえって人を不幸にすることがあります。ここでは聖書のユダやドストエフスキーの「罪と罰」も手がかりに、欲望と幸福の関係を考えてみます。

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邪心から生じる「不義なる欲望」

私たちは普段、「人を傷つけてはいけない」「人のものを盗んではいけない」「自分の利益のために人をだましてはいけない」と分かっています。それでも、怒りや嫉妬、恨み、過度な金銭欲、名誉欲などに心を奪われると、ときに自分でも正しくないと分かっている方向へ進んでしまうことがあります。

もちろん、欲望そのものが悪いわけではありません。お金を得たい、認められたい、豊かに暮らしたい、愛する人と一緒にいたい ― こうした願いは、人間が生きていくうえで自然なものです。

問題は、その欲望を満たすために、他人の権利や幸福を踏みにじったり、嘘や暴力、不正などの手段を選んだりするようになることです。ここでは、邪心から生じ、人として守るべき一線を越えてまで満たそうとする欲望を「不義なる欲望」と呼びます。

不義なる欲望の対象は、主にお金や物品、肉体など物質世界(※)に偏っていることが特徴で、その欲望が強くなると、「欲しい」という気持ちが「何としてでも手に入れたい」に変わり、ときには「そのためなら何をしてもよい」というところまで進んでしまいます。窃盗や詐欺、横領、暴力などの犯罪の背景にも、こうした欲望が関係している場合があります。

法律は、このような行為によって他人の生命・身体・財産などが侵害されることを防ぎ、社会の秩序を守るための重要な仕組みです。しかし法律が禁止しているから悪いのではなく、そもそも他人を犠牲にしてまで自分の欲望を満たそうとするところに、より根本的な問題があるのではないでしょうか。

※「不義なる欲望」という表現は、心理学や法律上の専門用語ではなく、こちらの一連の記事の中で、人間の欲望と幸福を考えるために用いている哲学的・宗教的な表現です。

※「物質世界」の対義語は「精神世界」です。


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欲望が満たされれば、本当に幸福なのか

不義なる欲望が満たされても、後悔したり、良心の呵責に悩まされる

不義なる欲望が満たされても、後悔したり、良心の呵責に悩まされる

では、不義なる欲望を実際に満たすことができれば、その人は幸福になれるのでしょうか。

欲しかったお金や地位を手に入れたり、気に入らない相手に仕返しをしたりすれば、その瞬間には「得をした」「すっきりした」「思いどおりになった」と感じることがあるかもしれません。欲望が満たされることによって、一時的な快感や満足感が生じること自体は不思議ではありません。

しかし、「欲望が満たされたこと」と「幸福になったこと」は同じではありません。

不正によってお金を得れば、発覚するのではないかという不安を抱えることがあります。人を傷つければ、人間関係を失うことがあります。嘘を重ねれば、さらに別の嘘が必要になることもあります。そして、自分自身が「してはいけないことをした」と感じているなら、後悔や罪悪感に苦しむこともあるでしょう。

で、人間には善を求める「本心」があると考えました。その「邪心」とは反対の「本心」が存在するならば、邪心から生じた欲望を満たしたとしても、本心はそれを喜ばないのではないでしょうか。むしろ、「不義なる欲望を満たした自分」と「そんなことをするべきではなかったと思う自分の本心」との間に葛藤が生じます。

これが、一般に「良心の呵責(かしゃく)」と呼ばれるものです。

つまり、不義なる欲望は、満たされるまで人を強く引きつけながら、いざ満たされても、本当の意味で心を満足させないのです。目の前の欲望を満たした結果、かえって幸福から遠ざかってしまう。つまり、不幸になってしまう。そこに、幸福を求める人間の欲望に大きな矛盾があるのです。


03/05

後悔に苦しんだイスカリオテのユダ

ユダの自殺

ユダの自殺 トゥルゴヴィシテ修道院 16世紀のフレスコ画 wikipedia

聖書には、欲望と後悔を考えるうえで象徴的な人物が登場します。イエス・キリストの十二弟子の一人、イスカリオテのユダです。

新約聖書では、ユダは祭司長たちから銀貨三十枚を受け取り、イエスを引き渡す約束をした人物として描かれています。そしてイエスに有罪判決が下ったことを知ると、ユダは後悔し、銀貨を返そうとした後、首をつって死んだと『マタイによる福音書』は伝えています。

ここで注目したいのは、ユダが銀貨を手にしたことによって幸福になったのではなく、後になってその行為を悔い、手に入れた銀貨さえ返そうとしたことです。一時の選択から生じた欲望と、それに突き動かされた行動が、後になって耐え難い後悔へと変わることがある ― そのような人間の心の一面を象徴する物語として受け止めることができます。

さらに『ヨハネによる福音書』では、ユダが弟子たちの金入れを預かりながら、その中身をごまかしていた人物として描かれています。聖書におけるユダ像は一面的ではありませんが、少なくとも、信頼される立場にいた人間であっても、欲望や選択によって大きく道を外れる可能性があることを物語っています。

NewTestament

そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。

©日本聖書教会「新約聖書」/マタイによる福音書27章3節~5節

※ユダが後悔したという記述は、「邪心から生じた不義の欲望が満たされた結果」と考えられます。善い行いであれば心は満たされ、後悔は生じないはずだからです。ただし、聖書はユダの内面を現代の心理学のように詳細に描いてはいません。また、ユダがイエスを裏切った理由も、単に「金銭目的」と断定できるとは限らず、より複雑な動機があった可能性もあるでしょう。


04/05

「罪と罰」が描く、欲望の先にある苦しみ

 

「悪いことだと分かっているのに実行してしまい、その後に自分自身の心によって苦しめられる」という人間の姿は、文学でも繰り返し描かれてきました。

その代表的な作品の一つが、ロシアの作家フョードル・ドストエフスキー(1821~1881)の小説『罪と罰』です。

主人公ラスコーリニコフは、貧しい元大学生です。彼は、ある種の「非凡な人間」には社会のために道徳や法律を踏み越えることが許されるのではないか、という危険な思想を抱き、金貸しの老婆を殺害します。さらに現場に居合わせた老婆の妹まで殺してしまいます。

ところが、殺人によって彼が自由や幸福を手に入れることはありませんでした。犯行後の彼を待っていたのは、恐怖、不安、孤立、そして激しい内面的な苦悩でした。

『罪と罰』の魅力は、単純な「悪いことをしたから罰を受けた」という物語にとどまらないところにあります。ラスコーリニコフは、自分の行為を理屈によって正当化しようとしながら、その理屈だけでは消すことのできない心の苦しみに直面します。そして物語は、信仰心の厚い少女ソーニャとの関わりや告白、刑罰を経て、彼が再び人間として生き直す可能性へと向かっていきます。

この作品は、邪心から生じた考えや欲望を理屈で正当化しても、本心まで完全に納得させることはできず、本当の幸福に至ることはできない。という人間の姿を描いた作品として読むこともできるでしょう。


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不義なる欲望は、なぜ人を幸福にしないのか

ここまで考えてきたことを整理すると、不義なる欲望には一つの特徴が見えてきます。

それは、「手に入れるまで」は幸福を約束しているように見えるのに、「手に入れた後」まで幸福を保証してくれるわけではないということです。

不正な手段で大金を得たとしても、そのために信用や人間関係、自由、社会的な立場を失えば、幸福になったとは言えないでしょう。相手を傷つけて一時的に気が晴れたとしても、その結果として大切な人を失い、後悔に苦しむなら、それも幸福とは呼べないはずです。

結局、邪心から生じる不義なる欲望は、人間に幸福を約束するように見えながら、実際には人を幸福から遠ざける方向性を持っていると言えます。

では、その反対に、本心から生じる欲望とはどのようなものでしょうか。そして、その欲望はなぜ人間を幸福へ向かわせるのでしょうか。

次の記事では、「本心と善なる欲望」について考えてみます。

〔出典・参考〕
日本聖書教会「新約聖書(新共同訳/口語訳)」/新日本聖書刊行会「新改訳聖書第三版」/世界平和統一家庭連合「原理講論」/フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」/Stanford Encyclopedia of Philosophy「Weakness of Will」/株式会社カンゼン「聖書の人々 完全ビジュアルガイド」