聖書と歴史の学習館

本心と邪心人間は誰しも「2つの心」を持っている

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誰もが持っている本心と邪心

私たちが自身の心を、素直に、正直に、見るとき、良い心と悪い心を発見できると思います。性善説(※)を前提にすれば、良い心(善い心)が「本心」であり、「悪い心」は「邪心」に相当します。

一般的ないい方をすれば、本心は、人のために何かしたいという思いで、ボランティア精神や親が子を思う愛情などが挙げられます。一方、邪心は、自己中心的な思いで、窃盗などの犯罪を犯したいと思ってしまうような心をいいます。

個人差はあるものの、人間誰しもが、この「本心」と「邪心」の2つの心を持っているのです。

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性善説と性悪説

性善説とは、人間の本性は、善であり、悪は人間の本性(善が)が隠れたときや汚されたり、傷つけられたりしたときに出現するという考え方のことです。ちなみに、性悪説とは人間の本性は基本的に(先天的に)悪であり、善は後天的な努力により習得されるものという考え方です。


02/04

人間は本心を追求し、邪心を嫌う

どんな人間も本心(善)を求め、邪心(悪)を避けようとします。いわゆる「勧善懲悪(かんぜんちょうあく)」です。悪人とよばれる人ですら、他人の悪を見れば、自分のことを棚に上げて、正義を主張します。何が悪で何が善なのかを心の深層では知っているのです。

しかし、現実には、邪心はかなりの強者です。どんなに嫌でも、どんなに逃げても、執拗に「邪心」が付きまとってきます。そして、邪心からは「悪の欲望(=人の道にはずれた欲望)」が生じ、人間を不幸に陥れる可能性が潜在しています。

現代に生きる多くの人は、本心(理性)で邪心をコントロールして「悪の欲望」を抑えています。しかし、ときに、その欲望をコントロールできなくなると、犯罪などのさまざまな悪なる行為が起こってしまいます。すると、世の中を乱したり、自分だけでなく、他人をも不幸にしてしまいます。


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義人・聖人たちも邪心に悩まされた

誰にでも潜んでいる「邪心」ですが、義人・聖人と呼ばれるような人でも悩まされていたようです。善を追求した方々だからこそ、「邪心」の存在をより強く感じていたのかも知れません。以下に、義人・聖人と呼ばれた人たちの言葉を紹介いたします。

本心と邪心の葛藤に苦悩したパウロ

パウロ(Saint Paul 紀元5~67年)は、今のトルコ中南部に生まれたユダヤ人で、初期キリスト教の発展に最も貢献したとされる人物です。キリスト教最大の伝道者といわれ、世界中で聖人として認められている人物です。 そのようなパウロでさえ、邪心には、悩まされていたようです。

New Testament

私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

ローマの信徒への手紙7章18節~24節
新日本聖書刊行会/新改訳聖書

邪心を抱えた身体を病身に喩えたアンデレ

キリスト教の12使徒の一人であるアンデレは、伝道中に異教徒に捕らえられ、磔(はりつけ)にされ、殉教する直前に、次のような祈りをとなえました。以下はその抜粋です。

Golden Legend

主よ、お願いします。いまこそ、わたしの肉体を土に返してくださるときです。(… 中略 …)いまにしておもうのですが、この身体は、重くて担うのがたいへんでしたし、馴らそうにも言うことをききませんし、病身なので看病に手こずり、そのくせやんちゃにあばれまわるので抑えつけるのに苦労しました。

ヤコブス・デ・ウォラギネ「黄金伝説」

ここで、アンデレの祈りの中の「病身」とは、一般的な病気ではなく、「邪心を抱えている身体」のことです。そして「邪心」は自分の中に棲むもう一人の自分のような存在で、抑えつけることに苦労したと証言しています。

邪心を「膿」に喩えた司教アンブロジウス

4世紀半ば、ローマ帝国の高級官僚の息子として生まれ、後にミラノの司教となったアンブロジウスは、心の中の邪心を「膿」と比喩し、次のように述べています。

Golden Legend

主よ、すぐに来てください。そして、さまざまな隠れた欲望を切りおとし、はやく傷口を開き、有害な膿がそれ以上はびこらないようにしてください。ありがたい水で有害のものをことごとく洗い清めてください。

ヤコブス・デ・ウォラギネ「黄金伝説」

ここで、さまざまな「隠れた欲望」とは「不義なる欲望(悪の欲望)」に対する喩えと考えられます。

わがこころの善くて殺さぬにはあらず

浄土真宗の開祖とされる親鸞の言葉です。

「わがこころの善くて殺さぬにはあらず。また、害せじと思ふとも百人千人を殺すこともあるべし。」

現代語では「私の心が善良であるから、人を殺さないのではない。また、人を殺すまいと思っていても、百人はおろか、千人を殺してしまうこともあるのだ。」と訳されます。

さらに意訳して、「人間は、誰しも善い心を持っているが、同時に悪なる心(邪心)も持っている。普段は善の心がそれを抑えているため、人を殺すことはないが、何かきっかけで(悪の欲望が生じ、制御できなければ)、多くの人を殺してしまう可能性もある」という解釈もできるでしょう。


04/04

義人・聖人も「邪心」に悩まされた

上記の言葉を見ると、義人・聖人と呼ばれるような人たちでも「邪心」を克服したり、消滅させたわけではないことがわかります。また、生涯にわたり「邪心」に悩まされたことがわかります。人間は「本心」と「邪心」という相反する2つの心を持っており、それが、生まれつきの「性(さが)」のようです。

〔出典・参考〕
wikipedia/広辞苑第5版/webio/kotobank.jp///株式会社カンゼン「聖書の人々 完全ビジュアルガイド」