
本心と邪心なぜ人は「善いことをしたい」のに、
反対のことをしてしまうのか
反対のことをしてしまうのか
「もっと人に優しくしたい」「やるべきことをきちんとやりたい」と思っているのに、腹を立ててきつい言葉を口にしたり、楽な方へ流されたりすることがあります。反対に、自分の利益にならなくても誰かを助けたい、困っている人を放っておけない、という気持ちが自然に湧くこともあります。このように、人間の心にはより善い方向へ向かおうとする心と、それとは反対方向へ引っ張る欲望や衝動が同時に存在するように見えます。ここでは、前者を「本心」、後者を「邪心」と呼び、人間の欲望と幸福について考えていきます。
誰もが持っている本心と邪心
私たちの心には、誰もが生まれながらにして持つ二つの側面があります。人を愛し、正しくあろうとし、より善く生きたいと願う「本心」と、自分の利益を優先し、場合によっては他者に害を与えることもいとわない「邪心」です。
本心は、誰かの役に立ちたいという思いから生まれ、ボランティア精神や親が子を思う愛情などがその代表例です。一方、邪心は自己中心的な欲求に基づき、窃盗などの不正行為に向かわせる心の働きを指します。程度の差こそあれ、人は皆、この本心と邪心の両方を内に抱えて生きています。
この二つの心は、日常のささやかな場面にも現れます。「こうした方がよい」と分かっている自分と、「分かっているけれど、したくない、できない」と感じる自分が同時に存在するのです。たとえば、試験が近いのに勉強よりスマートフォンを優先してしまう。健康のために生活を整えたいと思いながら、目先の快楽に流されてしまう。腹が立っても相手を傷つける言葉は避けるべきだと理解しているのに、つい口にしてしまう ― こうした場面は誰にでもあります。
本心は善い結果を生み、幸福へとつながります。反対に、邪心は悪い結果を招き、不幸をもたらします。だからこそ、自分の中にある二つの心を理解し、本心を育てていくことは大切なのです。
性善説と性悪説
「人間はもともと善い存在なのか、それとも放っておけば自己中心(自分の利益)を優先する存在なのか」。この問いは、古くから哲学や宗教で繰り返し議論されてきました。その代表的な考え方として、中国思想における性善説と性悪説があります。
性善説とは、人間の本性は本来「善」であり、悪はその善が隠れたり、汚されたり、傷つけられたりしたときに現れるという立場です。善は生まれながらに備わっているものの、育てなければ十分に発揮されないという考え方です。
この立場を代表する思想家が孟子です。孟子は、人間には仁・義などの徳へ成長していく萌芽が備わっていると説きました。これは「人は生まれながらに完全な善人である」という意味ではなく、善へ向かう可能性が内在しており、それを育てる環境や努力が必要だという主張です。
一方、性悪説は、人間の本性は基本的に(先天的に)「悪」であり、善は後天的な学びや努力によって身につけられるとする立場です。荀子は、人間が生まれながらに持つ欲求を放置すれば争いや混乱を招くと考え、礼や教育によって人を整える必要があると説きました。
ただし、荀子も「人間は善くなれない」と考えたわけではありません。むしろ、学びと鍛錬によって善を獲得できると強調しています。性善説と性悪説は対立するように見えますが、どちらも「人は善へ向かう可能性を持つ」という点で共通しており、人間理解の異なる側面を示す思想です。
人は誰しも「善」を求めている
孟子と荀子では、人間の本性についての考え方は大きく異なります。孟子は、人間にはもともと善へ向かう心が備わっていると考えました。一方の荀子は、人間の生まれながらの欲望をそのままにしておけば、争いや混乱につながると考え、学びや礼によって人間を善へ導く必要があると説きました。
しかし興味深いのは、人間の本性について正反対ともいえる立場をとった二人が、ともに「善」を人間が目指すべき方向として考えていたことです。善そのものを否定し、「人間は悪を目指すべきだ」と説いたわけではありません。
私たちの日常を考えてみても、同じことがいえるのではないでしょうか。どんな人間も、基本的には善を望ましいものと考え、悪を避けようとします。物語では善が悪に勝つ「勧善懲悪(かんぜんちょうあく)」が古くから好まれ、不正を目にすれば、それを批判したり、正義を求めたりします。自分自身が間違った行いをしてしまう人であっても、他人から同じような不正を受ければ、「それは間違っている」と感じるでしょう。
もちろん、何を善とし、何を悪とするかについては、時代や文化、立場によって判断が分かれる場合があります。それでも、人間が「より善いもの」「より正しいもの」を求めようとする心そのものは、広く見いだすことができます。
そう考えると、私たちの心には、さまざまな欲望や衝動が生じる一方で、それらを判断し、「善い方向へ進みたい」と願う、より根源的な心「本心」があると考えられます。
哲学や心理学における心の葛藤
「善いことが何か分かっているのに、それとは違う行動をしてしまう」という問題は、西洋哲学でも古くから論じられてきました。古代ギリシャ以来、この問題はアクラシア(akrasia)、日本語では「意志の弱さ」などと呼ばれています。
アクラシアとは、簡単にいえば、「こちらの方がよい」と自分で判断しているにもかかわらず、それに反する行動をしてしまうことです。これは、人間が一枚岩ではなく、判断・欲求・衝動の間で揺れる存在であることを考えるうえで興味深い視点です。
現代心理学でも、自己統制(self-control)は、長期的に大切にしたい目標と、目の前の誘惑や衝動との葛藤を調整する働きとして研究されています。つまり、人間の心に相反する動機が生じること自体は、宗教だけが語ってきた特殊な発想ではありません。
人間の矛盾性 - 善を願いながら、悪へ傾くことがある
私たちは、「こうした方がよい」「こんなことはしてはいけない」と分かっていながら、あえてその反対の行動を取ってしまうことがあります。ここには「本心」と「邪心」の葛藤が表れていると考えられます。
本心は、「より善く生きたい」「正しいことをしたい」「人を傷つけたくない」と願う心です。しかし現実には、それとは逆方向へ心を引っぱろうとする自己中心的な心、すなわち「邪心」も存在します。
そして実際には、邪心は決して無視できるほど弱いものではありません。「こんなことを考えてはいけない」と思っても、怒りや恨み、利己的な欲求などが何度も心に浮かんでくることがあります。遠ざけようとしても、繰り返し現れることさえあります。
これらの心が他者を傷つける行動へ向かったり、不正な利益を求めたり、人として守るべき一線を越えたりする方向へ働くとき、犯罪へと発展します。ここでは、邪心から生じ、そのような方向へ人を動かそうとする欲望を「不義なる欲望」あるいは「悪の欲望」と呼ぶことにします。
しかし多くの場合、私たちはそうした欲望をそのまま行動には移しません。「それをしてはいけない」「相手を傷つけてはいけない」「後で後悔する」と考え、自分自身を抑えています。理性や良心、社会的な規範など、さまざまな力によって欲望を制御しながら生きているといえるでしょう。
これは本心が邪心を抑えようとしている姿とも考えられます。
しかし、ときにはその抑制が働かなくなることがあります。怒りに任せて人を傷つけたり、利益のために人を欺いたり、利己的な欲望を満たすために犯罪へ踏み込んだりすることもあります。その結果、自分自身の人生を損なうだけでなく、家族や周囲の人、さらには社会全体にまで不幸をもたらす場合があります。
つまり人間は、善を願う心を持ちながら、その一方で、それとは反対方向へ引っぱる心にもさらされながら生きているのです。
ここに「人間という存在の矛盾性」を垣間見ることができます。
※哲学では、よりよい行動が何かを分かっていながら、それに反する行動をしてしまう問題が古くから論じられてきました。また現代心理学でも、長期的な目標と目先の欲求との葛藤や、衝動をどのように制御するかという問題が研究されています。
宗教者たちも心の葛藤を語ってきた
心の中に相反する方向性を感じる経験は、宗教者たちの言葉にも繰り返し表れます。ここでは、キリスト教と仏教からいくつかの例を見てみましょう。
「したい善を行わず、したくない悪を行う」 ― パウロ
パウロは1世紀の初期キリスト教を代表する伝道者です。現在のトルコ南部にあたるタルソス出身のユダヤ人で、キリスト教の成立と拡大に大きな影響を与えました。
新約聖書「ローマの信徒への手紙」7章には、善を願う自分と、それに反する力との激しい葛藤が描かれています。
私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
新日本聖書刊行会/新改訳聖書
※聖書でいう「律法」は、文脈によって意味の幅があります。狭い意味では、旧約聖書の冒頭にあるモーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)、すなわちユダヤ教の「トーラー」を指します。より広く、神の教えや戒めという意味で使われることもあります。ローマ書7章でパウロは、神の律法を喜ぶ「内なる人」と、自分を別の方向へ引く力との対立を語っています。
『黄金伝説』に描かれたアンデレの祈り
中世ヨーロッパで広く読まれた聖人伝『黄金伝説』には、キリスト教の十二使徒の一人アンデレが殉教を前に、自らの身体を「言うことをきかない」ものとして語る祈りが収められています。この文章では、身体が精神の望みに従わず、人を別の方向へ引く存在のように描かれています。
主よ、お願いします。いまこそ、わたしの肉体を土に返してくださるときです。(… 中略 …)いまにしておもうのですが、この身体は、重くて担うのがたいへんでしたし、馴らそうにも言うことをききませんし、病身なので看病に手こずり、そのくせやんちゃにあばれまわるので抑えつけるのに苦労しました。
※『黄金伝説』は13世紀に編纂された聖人伝です。後世のキリスト教文化が聖人の姿をどのように理解したかを示す文献です。
「隠れた欲望」を膿に喩えたアンブロジウス
4世紀のミラノ司教アンブロジウスについても、『黄金伝説』には、心の奥に潜む欲望を傷口の「膿」に喩え、神に清めを求める祈りが伝えられています。
ここには、自分の内面にある望ましくない欲望を自覚し、それを取り除きたいと願う宗教的な自己省察が表れています。
主よ、すぐに来てください。そして、さまざまな隠れた欲望を切りおとし、はやく傷口を開き、有害な膿がそれ以上はびこらないようにしてください。ありがたい水で有害のものをことごとく洗い清めてください。
「わがこころの善くて殺さぬにはあらず」 ― 親鸞
浄土真宗の開祖・親鸞の言葉を伝える『歎異抄』第十三条にも、人間の善悪を単純に自分の意思だけで説明できないという印象的な言葉があります。
わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし
この言葉は、「自分が人を殺さないのは、自分の心が特別に善良だからだ」と思い上がることへの戒めとして語られています。人は自分の善良さを絶対視できず、条件次第では思いもよらない行動へ傾く可能性を持つという、人間理解の厳しさを示していると考えられます。
Stanford Encyclopedia of Philosophy「Weakness of Will」「Mencius」「Xunzi」/National Library of Medicine(PMC)自己統制研究/『歎異抄』第十三条///ヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説』/株式会社カンゼン「聖書の人々 完全ビジュアルガイド」