ソビエト連邦の成立と成長レーニンからスターリンまで
ロシア革命によって共産主義政権を樹立したソビエト連邦は、レーニンを中心にして戦時共産主義体制をとって国内の反革命(反共産党)勢力や外国の干渉と戦った。また荒廃した国土と経済の復興に着手し、1921年、新経済政策(NEP)を導入し、経済を回復させた。1924年にレーニンの死後、後継者問題でトロッキーを退けたスターリンは、一国社会主義理論を唱え、独裁的な指導権を得た。彼は5カ年計画、農業集団化、富農の撲滅などを行なった。これによってソビエトは工業国として歩み始めた。農民はコルホーズに組織され、工業は軍事に不可欠な重工業が優先された。スターリンに反対する者には粛清が行われた。スターリンはその後、他国の内政に干渉し、第二次世界大戦ごろには世界に大きな影響力をもつようになった。しかし、第二次大戦後、米ソ冷戦が生じるなかで、スターリンに対する批判が国民の間に広がっていった。
ベルサイユ体制と干渉戦争
1919年6月28日、ヴェルサイユ宮殿「鏡の間」で講和条約が調印された
1918年11月、第一次世界大戦は、連合国の勝利によって終結します。その翌年の1919年、戦後の処理をめぐって、パリ講和会議が開催されました。そして戦勝国により、ヨーロッパ中心の新しい国際秩序「ベルサイユ体制」がつくられました。この時、戦勝国は自分たちの利益を優先し、敗戦国ドイツを弱体化させるべく、ドイツに植民地の放棄、軍備制限、賠償金支払いなどを課しました。さらに資本主義と対立する社会主義の台頭を恐れ、ロシアへの圧力をかけました。
その頃、ロシア国内では、社会主義政権(共産党)に不満を持つ資本家や保守的な軍人によって反革命軍(反共産党勢力)が結成され、内戦状態に陥っていました。そこに資本主義各国も、反革命軍を支援して内戦に加担するようになります。アメリカ・イギリス・フランス・イタリアに加え、日本までもがロシアに軍隊を送り込み(シベリア出兵)、圧力をかけました。これは、対ソ「干渉戦争」とよばれています。内戦と干渉戦争は絡み合いながら革命政権を圧迫しました。
ソビエト政府は赤軍を組織して対抗し、反革命軍をおさえ、外国軍をしりぞけました。また、コミンテルンを組織して、各国の共産党やアジアの民主主義勢力などを指導して、世界革命をおしすすめようとしました。
戦時共産主義体制
レーニンを中心とする革命政府(ソビエト政府)は内外の危機に対処するため、徹底した「戦時共産主義体制」を実施しました。全工業を国有化し、あらゆる経済活動を国家が管理しました。また、兵士を集めるため、兵士の志願制を徴兵制に改めました。さらに、農民からは食糧を強制的に提供させました。
その結果、食糧が奪われることで農民の生産意欲は薄れ、食糧不足が深刻化します。それに加え、ウクライナでは飢饉が発生し、数百万の農民が餓死しました。
それでもなおレーニンは、国は上から強い力で民衆を率いる必要があると考え、一党支配を強めます。そして1920年末までに、反革命軍を鎮圧することに成功しました。内戦も収まり、国内は落ち着きを取り戻します。
1921年、レーニンは「戦時共産主義体制」に替わり、「新経済政策(ネップ)」を打ち出します。その中では、ある程度の自由な経済活動(資本主義的要素)を認めました。例えば、余った穀物を自由に売ったり、個人が小さな商工業を経営して利益を得ることなどが認められました。すると、経済水準はしだいに回復に向かいました。
ソビエト社会主義共和国連邦の成立
1922年、4つのソビエト共和国で構成された「ソビエト社会主義共和国連邦(以下「ソビエト連邦」または「ソ連」という)」が成立しました。当初参加した共和国は、
- ロシア
- 白ロシア(ベロルシア)
- ウクライナ
- ザカフカース
の4カ国。やがて15の共和国で構成されます。
しかし、レーニンはソビエト連邦成立の数ヶ月前、重病に倒れていました。
1922年12月30日、ソヴィエト社会主義共和国連邦が成立。後に加盟国が増え、共和国が15、自治共和国が20、自治区が8、民族区が10で構成されるようになった。
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世界の大国へ成長
1924年にこの世を去ったレーニンの後を継いだのは、スターリンでした。スターリンは、レーニンの新経済政策(ネップ)を放棄し、再び全てを国が管理する計画(計画経済)を始めました。
スターリンのもとで、急速な重工業化と、農業の集団化が強行されました。そして、工業生産で世界第二位となり、世界の大国へと成長していきました。その過程では、ロシア民族を優先し、抵抗する農民を逮捕・追放したり、生産物の強制的供出によって餓死者を出すなど、おびただしい犠牲者を出し、レーニンの革命の理想から逸脱していきました。
1936年ソビエト政府は「スターリン憲法」を発布し、男女普通選挙や民族の平等などをうたいました。しかし、自由な選挙など実施されず、共産党による一党独裁が続き、民族間の不平等は解消されませんでした。スターリンの反対派に対しては、大粛清と呼ばれる殺害を行いました。スターリンの独裁により、ソビエトは人々が抑圧される社会へと姿を変えてしまいました。レーニンが目指した社会主義建設は、厳しい現実の中で、さらに変質していきました。
また、ソ連は資本主義とは異なる考え方に立つ国家でした。そのため、アメリカなどの資本主義陣営とは相容れず、20世紀後半には世界を2分する対立(冷戦)を作り出すことになりました。
レーニンの理想は実現せず
人類史上初の社会主義政権(ソビエト政権)を打ち立てたレーニンですが、彼が望んでいたような国家にはなりませんでした。レーニンが目指したのは、労働者と農民が国の中心となり、経済的に平等な社会主義国家です。つまり、裕福な資本家が貧しい労働者を支配するのではなく、人々の経済的な平等を目指す社会です。社会主義の連邦を作ることで、平等で平和な社会を実現しようとしました。レーニンは、資本家が持っていた資本を国が管理することで、労働者や農民が中心の平和で平等な国を目指していたのです。
NHK高校講座「世界史」/山川出版社「要説世界史」/山川出版社「世界史図録ヒストリカ」