イエスは十字架で死ぬために来られたと解釈できる聖句

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総督ピラト
Pontius Pilate
古代ローマの皇帝直轄領とされたユダヤ、イドメア、サマリアを治めた第5代総督。在任26~36年。任期中にユダヤ人が訴え出たイエスを十字架刑に処したことで有名。イエスの裁判にあたっては、その無罪を認め、不本意ながらも民衆の圧力に屈して十字架刑に処した。
また、ユダヤ人の宗教的心情を十分理解しないため諸々の衝突を起こしたことが記録に残されている。総督就任の際、ローマ皇帝像を描いた軍旗を掲げてエルサレムに入城したり、水道の建設資金をエルサレム神殿の金庫から流用し、これに抗議する民衆を虐殺するなど、ローマの権力を背景に高圧的な反ユダヤ政策をとった。統治の末期には、モーセの埋めた聖なる器を見ようと集まったサマリアの人々を治安上の懸念から攻撃させ、犠牲者を出した。このサマリア民衆虐殺事件により、サマリア人に訴えられ、ローマに召喚されて任を解かれた。その後まもなく自殺したとも伝えられているが、キリスト教徒になったという伝承もあり、コプト教会やエチオピア教会は彼とその妻を聖人としている。
〔参考・引用〕
コトバンク/ブリタニカ国際大百科事典/日立ソリューションズ・クリエイト「世界大百科事典 第2版」/小学館「日本大百科全書」

イエスの十字架・代理贖罪

世界中のキリスト教人口は21億人。世界人口(69億人)の約3割を占めます。そしてその多くの人たちは「イエス・キリストが十字架で死ぬために来られた」と信じています。キリスト教に縁の薄い私たち日本人にとっては、理解しがたい内容だと思います。「十字架で死ぬために来られた」とは、いったいどういうことなのでしょうか。世界の人々はイエスの十字架をどのように考えているのでしょうか。


イエスの十字架に対する一般的な見解

キリスト教では、イエスは、罪なきお方として、神より遣わされたメシヤと信じられています。しかし、罪のないイエスが罪人として、十字架で処刑されました。 罪がないのに処刑されたのは、人類の罪を背負ったからと理解されています。つまり、イエスが私たち人類に代わって、罪の清算をされたというのです。

逆から考えると、イエスが十字架で死ななければ、人類の罪を清算できないということになります。端的にいえば、イエスは人類の罪を清算すべく、十字架で死ぬために来られた。イエスの使命は死ぬことであった。という解釈されています。


代理贖罪

多くのキリスト教では「罪を持つ私たちの身代わりとして罪なきイエスが罪を背負って処刑された」と教えています。そして、私たちはこの事実を、信じて、受け入れることによって、私たちの罪は赦されると教えています。このように、罪なきメシヤが、私たちの身代わりに罪人として、死を遂げることによって、人類の罪を償い、救いをもたらすという教義を「代理贖罪」といいます。

※ここで罪とは、自ら犯した「自犯罪」の他、あるグループが罪を犯した場合、そのグループに属している人が罪を犯したことになる「連帯罪」、人類始祖が神に逆らうことにより、人類全体が背負っている「原罪」なども含まれます。

わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。

新約聖書 エフェソの信徒への手紙/1章7節


十字架の死に対する預言

旧約聖書の最大の預言書といわれる「イザヤ書」には、イエスの代理贖罪について記録されています。イザヤ書は、イエス以前の前8世紀から前3世紀頃に書かれたとされています。

彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。

旧約聖書 イザヤ書/53章 7節

この預言は、イエスが十字架で処刑される前の裁判の場面だといわれています。そして、新約聖書には次のように記録されています。

さて、イエスは総督の前に立たれた。すると総督はイエスに尋ねて言った、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」と言われた。しかし、祭司長、長老たちが訴えている間、イエスはひと言もお答えにならなかった。するとピラトは言った、「あんなにまで次々に、あなたに不利な証言を立てているのが、あなたには聞えないのか」。しかし、総督が非常に不思議に思ったほどに、イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった。

新約聖書 マタイによる福音書/27章 11節 - 14節

このように旧約聖書の「イザヤ書」と新約聖書の「マタイによる福音書」が見事に対応していることを根拠に、イエスの十字架の死は予定されたものであると理解されています。


代理贖罪に関する預言

代理贖罪についても旧約聖書に次のように記録されています。

彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。
彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。

旧約聖書 イザヤ書/53章 8節~12節抜粋

上記のように「彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれた」「彼を砕くことは主のみ旨であり…」「彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。」などの記録があり、イエスの十字架は神が予定されたことであり、人々の罪を背負って処刑されたと解釈できる内容になっています。

しかし、一方では、イエスの十字架での死は必然でなかった(イエスは十字架で死ぬために来られたわけではない)と解釈できるような預言もあります。

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