2つの心 本心と邪心

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親心と児童虐待
この世の中で最も美しく、信用できるものの一つとして、親の子に対する愛情が挙げられると思います。親は子どもの幸せのために生きており、ときには子のためなら、命をも惜しまないというのが親心でしょう。
しかし、残念なことに、反対の気持ちも生じてしまうことがあるようです。例えば、親による児童虐待です。
事件が報道されたときなどに、幼い子を持つ親御さんと話をすると、虐待をする親の気持ちもわからなくはない(ただ、行動に移さないだけ)とおっしゃるケースが少なくないのです。つまり、我が子を愛し、幸せになってもらいたいという気持ちがある一方で、何かのきっかけで、それとは正反対の気持ちも生じてしまうこともあるようです。

人間は誰しも「2つの心」を持っている

誰もが持っている本心と邪心

私たちが自身の心を、素直に、正直に、見るとき、良い心と悪い心を発見できると思います。性善説(※)を前提にすれば、良い心(善い心)が「本心」であり、「悪い心」は「邪心」に相当します。

※性善説とは、人間の本性は、善であり、悪は人間の本性(善が)が隠れたときや汚されたり、傷つけられたりしたときに出現するという考え方のことです。ちなみに、性悪説とは人間の本性は基本的に(先天的に)悪であり、善は後天的な努力により習得されるものという考え方です。

一般的ないい方をすれば、本心は、人のために何かしたいという思いで、ボランティア精神や親が子を思う愛情などが挙げられます。一方、邪心は、自己中心的な思いで、窃盗などの犯罪を犯したいと思ってしまうような心をいいます。

個人差はあるものの、人間誰しもが、この「本心」と「邪心」の2つの心を持っているのです。


人間は本心を追求し、邪心を嫌う

どんな人間も本心(善)を求め、邪心(悪)を避けようとします。いわゆる「勧善懲悪(かんぜんちょうあく)」です。

悪人と呼ばれる人ですら、他人の悪を見れば、自分のことを棚に上げて、正義を主張します。何が悪で何が善なのかを本当は知っているのです。

しかし、現実は邪心の思いの方が強いようです。どんなに嫌でも、どんなに逃げても、執拗に「邪心」が付きまとってきます。そして、邪心からは「悪の欲望(=人の道にはずれた欲望)」が生じ、人間を不幸に陥れる可能性が潜在しています。

現代に生きる多くの人は、本心(理性)で邪心をコントロールして「悪の欲望」を抑えています。しかし、ときに、その欲望をコントロールできなくなると、犯罪などのさまざまな悪なる行為が起こってしまいます。すると、世の中を乱したり、自分だけでなく、他人をも不幸にしてしまいます。

誰にでも潜んでいる「邪心」ですが、聖人と呼ばれるような人でも悩まされていたようです。善を追求した聖人だからこそ、「邪心」の存在をより強く感じていたのかも知れません。以下に、義人・聖人と呼ばれた人たちの言葉を紹介いたします。


本心と邪心の葛藤に苦悩したパウロ

初期キリスト教の発展に最も貢献したといわれる聖人パウロの言葉です。

私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

ローマの信徒への手紙7章18節~24節
新日本聖書刊行会/新改訳聖書

※神の律法…ここでは「神の望む行い」のような意味になり、「本心」に由来する欲望や行いに相当します。一方「異なった律法」は「邪心」に由来する欲望や行いに相当します。一般的にいわれる「律法」とは、神がイスラエル民族(今のユダヤ人)に示したとされる戒律や法律のこと。今のユダヤ人はこの律法を遵守しながら生活しています。

※パウロ(紀元5~67年):今のトルコ中南部に生まれたユダヤ人。初期キリスト教の理論家であり、キリスト教最大の伝道者。世界中で聖人とされており、世界各地で聖パウロの名を見かけます。例えば、アメリカの「セントポール(SaintPaul=聖人パウロ)」やブラジルの「サンパウロ(SãoPaulo)」はパウロの名前に由来している都市です。日本でも、教会名や学校、幼稚園、ホテルの名前などとしてみかけます。東京にある立教大学の英語名も「セントポールズユニバーシティ(Saint Paul's University/聖パウロ大学)」となっています。


邪心を抱えた身体を病身に喩えたアンデレ

また、アンデレ(キリスト教の12使徒の一人)は、宣教中に異教徒に捕らえられ、磔(はりつけ)にされ、殉教する直前に、次のような祈りをとなえました。以下はその抜粋です。

主よ、お願いします。いまこそ、わたしの肉体を土に返してくださるときです。(… 中略 …)いまにしておもうのですが、この身体は、重くて担うのがたいへんでしたし、馴らそうにも言うことをききませんし、病身なので看病に手こずり、そのくせやんちゃにあばれまわるので抑えつけるのに苦労しました。

ヤコブス・デ・ウォラギネ「黄金伝説」

このアンデレの祈りの中の「病身」とは、一般的な病気ではなく、「邪心を抱えている身体」のことと考えられます。そして「邪心」は自分の中に棲むもう一人の自分のような存在で、抑えつけることに苦労したと証言しています。


邪心を「膿」に喩えた司教アンブロジウス

4世紀半ば、ローマ帝国の高級官僚の息子として生まれ、後にミラノの司教となったアンブロジウスは、心の中の邪心を「膿」と比喩し、次のように述べています。

主よ、すぐに来てください。そして、さまざまな隠れた欲望を切りおとし、はやく傷口を開き、有害な膿がそれ以上はびこらないようにしてください。ありがたい水で有害のものをことごとく洗い清めてください。

ヤコブス・デ・ウォラギネ「黄金伝説」

ここで、さまざまな「隠れた欲望」とは「不義なる欲望(悪の欲望)」に対する喩えと考えられます。


わがこころの善くて殺さぬにはあらず

浄土真宗の開祖とされる親鸞の言葉です。

「わがこころの善くて殺さぬにはあらず。また、害せじと思ふとも百人千人を殺すこともあるべし。」

現代語では「私の心が善良であるから、人を殺さないのではない。また、人を殺すまいと思っていても、百人はおろか、千人を殺してしまうこともあるのだ。」と訳されます。

さらに意訳して、「人間は、誰しも善い心を持っているが、同時に悪なる心(邪心)も持っている。普段は善の心がそれを抑えているため、人を殺すことはないが、何かきっかけで(悪の欲望が生じ、制御できなければ)、多くの人を殺してしまう可能性もある」という解釈もできるでしょう。


義人・聖人も「邪心」に悩まされた

上記の言葉を見ると、義人・聖人と呼ばれるような人たちでも「邪心」を克服したり、消滅させたわけではないことがわかります。また、生涯にわたり「邪心」に悩まされたことがわかります。人間は「本心」と「邪心」という相反する2つの心を持っており、それが、生まれつきの「性(さが)」のようです。


〔参考・引用〕
wikipedia/広辞苑第5版/webio/kotobank.jp/日本聖書教会「新約聖書(新共同訳/口語訳)」/新日本聖書刊行会「新改訳聖書第三版」//株式会社カンゼン「聖書の人々 完全ビジュアルガイド」