聖書と歴史の学習館

義なる欲望と不義なる欲望人間の幸福と不幸

義なる欲望とは、人間を幸福に至らしめる欲望であり、不義なる欲望とは人間を不幸に至らしめる欲望です。人間は欲望が満たされたとき、幸福を感じます。しかし、欲望が満たされても、結局は不幸になる場合があります。それは義なる欲望が満たされると幸福になり、不義なる欲望が満たされると不幸になるからです。誰もが願う幸福の世界は未だ実現されていません。不幸に向う指向性が世の中に存在するからです。

01/06

悪と善の狭間で生きている私たち

私たちの社会には、窃盗、殺人、性犯罪など、さまざまな犯罪、いわゆる「悪」が存在します。その一方で、ボランティアをはじめとする社会貢献など、いわゆる「善」が存在しています。私たちは、悪と善の狭間で生きているのです。

ほとんどの人は「悪」が存在することについて、当然のように思い、あまり深く考えたり、深く学んだこともないと思います。しかし「悪」というものをあらためて見つめてみると不思議なものです。なぜ、誰もが願わない悪や苦しみがこの世に存在しているのでしょうか。どのようにして人間の中に存在するようになったのでしょうか。生物の進化の賜物なのでしょうか。私たちは、悪については、わからないまま生きてきているのです。

そして、人間の本心(良心)に従って悪を否定し、人間は法律・規律などをつくり、それに従って生きてきました。


02/06

悪の根源は利己主義(自己中心)

悪の根源は「利己主義的な欲望」です。 周囲への迷惑や不幸を顧慮せず、「自分さえよければよい」という「自己中心的な欲望」です。 その欲望に従って行動すると、犯罪にまで発展することがあります。 そして、自分を不幸にするだけでなく、当事者をめぐる家族や友人までも不幸にしてしまいます。

犯罪者本人は、一時的には「幸福(のようなもの)」を感じるかも知れませんが、やがて呵責や不安を覚え、その苦しみに耐えることができず、自首したり、自殺してしまうケースも少なくありません。 幸福を求めて行動したのですが、その欲望が利己主義(自己中心)であったため「不幸」につながってしまったのです。


03/06

善の根源は愛他主義(他者中心)

一方、「善」の根源は、「愛他主義的な欲望」です。「他人の為に何か役立ちたい。誰かに喜んでもらいたい」という「他者中心的な欲望」です。その欲望に従って行動すると、他人を幸福にするだけでなく、自分をも幸福にします。

例えば、ボランティア活動をされている方に話を聞くと、ボランティアはしているのではなく、させていただいているとおっしゃる方も少なくありません。上記のような「愛他主義的な欲望」を満たすべくボランティアをされているのだと思います。また、震災や気象災害などでボランティアを受ける多くの被災者の方々が「救援物資なども助かりますが、何よりボランティアの方々に来ていただいて、支援していただいたことが最も嬉しく、心の支えになる」と話しておられる報道もしばしば見られます。私たちの本心は、お互いに助け合って生きようとする指向性を持っているようです。「愛他主義的な欲望」に従って行動すると、自分だけでなく、他人へも幸福を与えるようです。


04/06

義なる欲望と不義なる欲望

人間誰しも幸福を求めます。犯罪者ですら、はじめから不幸になるために、悪なる行為をするのではありません。欲望を満たして幸福になりたくて、その手段として犯罪を犯してしまうのです。

「愛他主義的な欲望」であれ、「利己主義的な欲望」であれ、欲望が満たされたときに「喜び」を感じ、「幸福」を感じることでしょう。 しかし、欲望(特に「利己主義的な欲望」)を満たすべき行動をしても、結局は不幸になってしまうケースがあります。

上記の観点から欲望を見つめてみると、欲望には、「愛他主義的な欲望」と「利己主義的な欲望」の2つのタイプあることがわかります。言い換えれば、「幸福に向う欲望」と「不幸に向う欲望」です。

幸福に向う欲望は、願いとおりに幸福になるので、正しい欲望であり、「義なる欲望」とよばれています。これと反対に不幸に向う欲望を「不義なる欲望」とよばれています。

2つの欲望の図

 

「義なる欲望」は本心から生じ、幸福に到達し、善なる結果をもたらします。
「不義なる欲望」は邪心から生じ、不幸に到達し、悪なる結果をもたらします。

前者の幸福に向う方向性(欲望)を「本心の指向性」とよび、後者の悪に向かう方向性(欲望)は「邪心の指向性」とよばれます。

2つのタイプの欲望
 不義なる欲望(悪)義なる欲望(善)
発露邪心本心
動機自己中心(利己主義)他人中心(愛他主義)
結果願っていない「不幸」につながる願い通りに「幸福」につながる

column

誰もが持っている2つの欲望

人間は誰しも義なる欲望と不義なる欲望の両方を持っています。私たちも心の中を正直に見つめると、置かれた環境(状況)などによって、善なる欲望が湧いたり、不義なる欲望が湧いてくることもあります。これは、凡人だけでなく、義人・聖人と呼ばれる人でも、不義なる欲望を持ってしまうのです。修道者たちは、この不義なる欲望は肉体に起因するものと考え、その欲望を何とか抑えようとしてきました。そして、断食をしたり、滝に打たれるなど、難行・苦行と呼ばれる肉体を打つ修行を行ってきました。


05/06

人生の目的

人生の目的は?人間が生きている目的は?と聞かれたら、あなたなら何と答えるでしょうか。多くの人は回答に苦しむのではないでしょうか。では、将来の夢は?と聞かれたら、何と答えるでしょうか。例えば、若い方であれば、「スポーツ選手になりたい」、「アイドル歌手になりたい」、「研究・開発者になりたい」などの回答が返ってくるでしょう。

夢は願望であり、欲望であり、理想です。私たちは「幸福(幸せ)」を思い描いて、夢を語ります。「私は不幸になるために努力しています」などとという人は一人もいません。最初から不幸を願って行動する人は誰もいないのです。誰もが幸福になりたいと思い行動します。悪人と呼ばれる人たちや犯罪者、自殺者ですら、(今よりも)幸福になれると思って行動を起こすのです。

日常を見ても、よい学校に行くこと、よい会社に就職すること、マイホームを購入すること、結婚すること…。すべては「幸福」になるための行いであるといえます。

つまり「人間は幸福を求めて生きている」、「人生の目的は幸福になること」といえるのではないでしょうか。


06/06

未だ幸福の世界が実現されていない

この地上に生まれて、死んでいった人が一人も例外なく「幸福になりたい」と願ってきたとするならば、人類歴史が始まってから今日までに、幸福な世の中が実現されていてもおかしくないのではないでしょうか。しかしながら、私生活を見ても、社会を見ても、世界を見ても、本当に幸福になったと断言できる状況ではありません。

私たち自身や私たちの社会には、「幸福に向かう指向性(力)」がありますが、一方では、その正反対の「不幸に導くような指向性(力)」があるからです。そして誰もが願わない不幸の現実が、歴史の中に綿々と続いているのです。そこに、人間や社会の矛盾性が見え隠れしているようです。

〔出典・参考〕
世界平和統一家庭連合「原理講論」/倉原克直氏「総序」