身代わり(代理)の摂理

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身代わりの摂理

神の摂理(予定)は絶対的

人類始祖の堕落により、神の天地創造は、まだ完了していません。人間を堕落から救済し、人間を復帰し、完成させて始めて天地創造を終えることができるのです。神は絶対者であられるので、神の天地創造の偉業を途中でやめることはできません。神の摂理(み旨に対する予定)は絶対的なのです。

このように、人間始祖の堕落により、神の天地創造のプロセスの中に、人類の救済という摂理が必要になりました。しかし、天地創造の摂理も人類救済の摂理も、神のみでは完遂できません。人間が自らの責任を果たすことが必要だからです。つまり、神の摂理(み旨)は、神の責任分担と人間の責任分担が合わさり一つになって初めて完成できるようになっているのです。言い換えれば、神の天地創造は神と人間のコラボレーションで完成するのです。

神はこれまで、アベル、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、列王たち、洗礼ヨハネ、イエス…など、さまざまな人物を立てて摂理を進めて来られました。 しかし、神が立てた人物が責任を果たせず摂理が頓挫したときには、神はその代理として、他の人物を立ててでも、最後まで、このみ旨を摂理していかなければならないのです。上記のとおり神のみ旨は絶対的なものとして予定されているからです。

思い起こせ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはいない。わたしは神であり、わたしのような者はいない。わたしは初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り、わたしは望むことをすべて実行する。東から猛禽を呼び出し、遠い国からわたしの計画に従う者を呼ぶ。わたしは語ったことを必ず実現させ、形づくったことを必ず完成させる。

新約聖書/イザヤ書46章9節~11節(新共同訳)


聖書の中に見られる身代わりの摂理

聖書の中には次のような身代わりの摂理が記録されています。

• アダム→イエス
アダムを中心とした神の創造目的を完成させようとしたみ旨(神の天地創造)は、アダムがみ言(「とって食べるな!」)を守ることができず、達成できませんでした。しかし、神はイエスを後のアダムとして降臨させて、再創造の摂理をなされました。
• イエス→再臨のイエス
イエスを十字架で殺害することによって、神の創造目的を完成させようとしたみ旨(神の天地創造)は完成できなかったので、イエスは再臨されてまでも、このみ旨を必ず完遂することを約束なさりました。
• アベル→セツ
カインがアベルを殺害することによって、成就できなかったみ旨を、アベルの身代わりとしてセツを立てて成し遂げようとされました。

再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。

旧約聖書/創世記4章25節(新共同訳)

• アダムの家庭→ノアの家庭
神はアダムの家庭で、カインとアベルを中心とした摂理をなされましたが、カインがアベルを殺害することによって、このみ旨は成し遂げられませんでした。その後十代を経て、アダムの家庭の代理としてノアの家庭を立てて摂理を進められました。
• ノアの家庭→アブラハムの家庭
ノアの家庭では、ハムの失敗により、摂理が頓挫してしまいました。神はその身代わりにアブラハムの家庭を立てて、そのみ旨を成し遂げられました。
• モーセ→ヨシュア
モーセによって成し遂げられなかったみ旨を、その身代わりにヨシュアを立てて、成就させようとされました。ヨシュアは、モーセとともにエジプトを出てから、荒野で流浪する四十年を、ひたすら信仰と忠誠とをもって過ごしてきた人物です。

主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。

旧約聖書/ヨシュア記1章1節~7節(新共同訳)

• イスカリオテのユダ→マッテヤ(マティア)
イスカリオテのユダはイエスの十二弟子の一人として選ばれましたが、彼の反逆によって完成できなかったみ旨は、その身代わりとしてのマッテヤを選んで成し遂げようとされました。

そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。

新約聖書/使徒言行録1章23節~26節(新共同訳)

• 洗礼ヨハネ → ペテロ
イエスは第一の弟子として洗礼ヨハネを選ばれましたが、彼がその責任を完遂し得なかったために、その代わりとしてペテロを選ばれました。
• ユダヤ人 → 異邦人
旧約時代、人類の救済の摂理をなさるために、神はユダヤ民族を選ばれました。そして、民族から国家、さらには世界への摂理が進む予定でした。しかし、彼らがその責任を全うすることができないようになったとき、その使命を、異邦人たち(キリスト教徒たち)に移されました。

しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために。』」

新約聖書/使徒言行録13章45節~47節(新共同訳)

イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。
祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。

新約聖書/マタイによる福音書21章42~43節、45~46節(新共同訳)

※祭司長たちやファリサイ派の人々は、当時のユダヤ人の指導者的な立場にある人々でした。

• 洗礼ヨハネ → イエス
洗礼ヨハネは、イエスがメシアであることを証し、ユダヤ人をイエスの前に導く(イエスの道を直くする)使命を持っていました。しかし、洗礼ヨハネは次第にイエスを疑うようになり、イエスに逆らうようになったため、洗礼ヨハネをメシヤのように信じて従ってきたユダヤ人たちは、自然にイエスを信じなくなりました。そのため、神の摂理に対する洗礼ヨハネの失敗を償うため、イエスは、洗礼ヨハネの使命を代理して、荒野での40日間の断食と三大試練を受けなければなりませんでした。

〔参考・引用〕
日本聖書教会「旧約聖書(新共同訳/口語訳)」/新日本聖書刊行会「新改訳聖書第三版」/日本聖書教会「新約聖書(新共同訳/口語訳)」/新日本聖書刊行会「新改訳聖書第三版」/統一教会「原理講論」