聖書と歴史の学習館

中東・パレスチナ問題の経緯第二次世界対戦後~イスラエル建国

イスラエルの建国宣言
1948年5月14日
01/09

1945年(第二次世界大戦終戦直後) イルグンによる武力闘争が活発化

第二次世界大戦では、シオニスト(ユダヤ人)はイギリスの戦争を支持しました。27,000人のユダヤ人を投入し、イギリスとともに、フランスやナチス・ドイツとの戦いを続けました。しかし、ユダヤ人国家の建設という目標の実現にとっては、イギリスが最大の障害になるであろうとの認識を持っており、戦後はイギリスとの武力闘争が避けられないものとして、シオニストたちは戦時中から準備を整えていました。そして、1945年に終戦となりますが、その直後からユダヤ人の武装組織「イルグン」による武力闘争が活発化しました。イギリスは、これを鎮静化すべく陸軍部隊を派遣し、治安維持活動を行うもののなかなか成果はあがりませんでした。


02/09

1946年6月29日 イギリスが「アガサ作戦」を実行

イギリス政府は「アガサ作戦」を実行。エルサレムのユダヤ機関事務所を急襲し、一斉拘禁します。3,000名以上のユダヤ人を逮捕し、機密文書を押収しました。「イルグン」のメンバー7人が処刑されました。


03/09

1946年7月22日 キング・ダビデ・ホテル爆破事件

爆破されたキング・ダビデ・ホテルの写真

爆破されたキング・ダビデ・ホテル

ユダヤ人の武装組織「イルグン」はアガサ作戦の報復と押収された機密文書を消し去るために、イギリス軍司令部(委任統治政庁)があるキング・ダビデ・ホテル(※1)に爆弾を仕掛けます。イルグンはホテルに警告(※2)を発した後、ホテルを爆破しました。これにより、ホテルの南西部分が崩壊し、イギリス司令部の要員に多数の死傷者が出ました。

※1:キング・ダビデ・ホテルはエルサレムで建てられた最初の近代的な豪華なホテルでした。イギリス軍司令部は南側を専有して使用していました。ホテルの客室の3分の2は、イギリス政府や軍が使用していました。

※2:警告があったとき、ホテルやイギリス政府は軽視しました。その理由としては、当時、偽の爆弾情報が頻繁にあったこと、ホテルは厳重に警備されていたため信憑性がなかったためなどといわれています。


04/09

1947年2月イギリスがパレスチナ統治を国連に委ねる

1946年9月、パレスチナ統治に困難を覚えたイギリス政府は、もう一度、問題解決の主導権獲得を試みるため、和平会議を呼びかけますが、ユダヤ人側は出席を拒否し、パレスチナは騒乱状態となりました。

翌年の2月には、イギリスはパレスチナ問題の解決能力がないことを認め、パレスチナ問題の解決を国連に委ねることになりました。これにより、イギリスはパレスチナの統治を放棄したことになりました。


05/09

1947年6月 国連がパレスチナに調査団を派遣

1947年5月、国連パレスチナ特別委員会(UNSCOP)がパレスチナに調査団を派遣します。調査団に対し、ユダヤ人は積極的に協力しましたが、アラブ人は協力しませんでした。その結果、アラブ側は不利な状況となり、パレスチナにユダヤ人国家を作ることに対し、国連が認めやすくなりました。

※UNSCOPは、パレスチナでの現地調査を含め、5月26日から8月31日まで活動を行ないました。


06/09

1947年アンネの日記が出版される

アンネ・フランクの写真

アンネ・フランク

「アンネの日記」は、ユダヤ人少女のアンネ・フランクが、ナチス・ドイツによるユダヤ人狩り(ホロコースト/1933年~45年)を恐れ、オランダのアムステルダムの隠れ家で生活していたときに、家族や同居人たちの生活を綴ったものです。1944年に隠れ家を発見され、アンネを含む住人は全員はドイツの強制収容所に送られてしまいました。アンネはチフスにかか罹って15年という短い生涯を閉じました。

「アンネの日記」は、オランダで出版され、多感な少女が懸命に生きた姿が感動を呼び、世界的なベストセラーとなりました。「アンネの日記」を読んだ世界の人々は、ユダヤ人に同情的となり、イスラエル建国を後押しする要因の一つとなりました。


07/09

1947年7月 エクソダス号事件

1947年7月、パレスチナへの移住を目指したユダヤ人難民4530人を乗せた「エクソダス1947号」が、パレスチナのハイファ港沖でイギリス軍により拿捕さました。イギリス軍はユダヤ人をイギリス船に強制的に移動させ、出航地であるフランス南部のマルセイユに返しました。マルセイユでは、ユダヤ人が下船を拒否し、フランスもユダヤ人を上陸させてほしいという要求を受け入れませんでした。ほぼ1ヶ月にわたりフランスの沖合いで停泊した後、結局、イギリスはユダヤ人難民をドイツのハンブルグ収容所に輸送しました。

この模様は逐一ラジオで全世界に伝えられ、ホロコーストの生存者の窮状がありありと知られることになり、イギリスは西欧諸国から大非難を浴びました。イギリス国内でさえもユダヤ難民船の強制送還に多くの反対意見が起こっていました。西欧諸国は、イギリスに対して、ユダヤ人がパレスチナへの自由な移住を許可するようにという国際的な圧力を高めていました。エクソダス号事件により、世界中からユダヤ人への同情が集まり、国連パレスチナ分割決議への心情的な推進力となりました。

※エクソダス号事件は非合法のユダヤ難民の受け入れを厳しく制限していた当時のイギリスのパレスチナ統治政府政策を象徴するものといわれています。

※アメリカ合衆国で、1958年にレオン・ユリスの執筆したのベストセラー小説「エクソダス号事件」は映画「栄光への脱出」のモチーフとなりました。


08/09

1947年11月29日 国連がパレスチナ分割決議案を可決

エクソダス号事件が世界中から注目を集めたこともあり、パレスチナ問題は国連の最優先課題となりました。1947年9月には、国連パレスチナ特別委員会は委任統治領パレスチナ分割決議案(パレスチナの土地をユダヤ人とアラブ人で分割し、2つの独立国家をつくる)を提出し、同年11月29日には、賛成多数(※)で可決されました。

※パレスチナ分割決議案は、賛成33・反対13・棄権10で可決されました。

当時、ユダヤ人はパレスチナの人口の約3分の1程度を占めていたにすぎず、所有していた土地もパレスチナの7%程度でした。パレスチナ分割決議案の可決後は、56.4%が割り当てられ、ユダヤ人にとっては大変有利なものとなりました。また、ガザ、ヨルダン川西岸地区の42.9%がアラブ人に割り当てられました。なお、聖地エルサレムはイスラム教のみならず、ユダヤ教、キリスト教の聖地でもあるので、エルサレムおよび周辺地域の0.7%は国連が管理する「国際管理地区」となりました。

パレスチナ分割決議を受け、これまで迫害されてきたユダヤ人は、翌年、悲願の独立国家を建国することになります。しかし、先住のアラブ人にとっては、ユダヤ人に土地を奪われることになるため、アラブ諸国は猛烈な反対します。アラブ諸国は、この決議を受け入れることができず、パレスチナでの激しい武力衝突を引き起こすこととなりました。


09/09

1948年5月14日 イスラエルの建国宣言

1948年5月14日、イギリスの高等弁務官がパレスチナを去り、イギリスによるパレスチナ統治が終結しました。この日、アラブ諸国の同意がないまま、シオニストのリーダーであるベン・グリオンによる臨時政府が「イスラエル共和国誕生」を宣言しました。同時に新しい国イスラエルにユダヤ人は無制限に移住できることを宣言します。するとアメリカとソ連は、このイスラエルの建国を支持しました。 その後、1951年までの3年間に、それまで難民となっていたユダヤ人を含むほぼ70万人のユダヤ人がイスラエルに移住しました。

イスラエル建国宣言/イスラエル初代首相ベン・グリオン

イスラエル建国宣言/イスラエル初代首相ベン・グリオン


イスラエル国の誕生

イスラエル国の誕生/STATE OF ISRAEL IS BORN
パレスチナ・ポスト 1948.5.14

しかし、これを認めない近隣アラブ諸国はイスラエルが独立宣言をおこなった当日に宣戦布告し、翌15日には、アラブ連合軍の5力国(エジプト、トランス・ヨルダン、シリア、レバノン、イラク)がイスラエルに侵攻します。これが今もなお続いている、中東戦争の始まりです。1973年の第四次中東戦争では、石油危機が起こり、世界経済に大きな影響を与えました。

※「イスラエル」は、ユダヤ民族の父祖であるアブラハムの孫ヤコブの名に由来します。イスラエルは神からヤコブに与えられた名で、ヘブライ語の語源は「イスラ(戦う、戦士、秘密)」+「エル(神)」で日本語では、「神は戦う」、「神と(ともに)戦う」「神の戦士」、「神が支配する」などと訳されます。

〔出典・参考〕
中経出版「池上彰の世界の宗教が面白いほどわかる本」/日刊こどもニュース「パレスチナ問題ってなに?英国と国連が悪いの?」/Hiroshi UEHARA on Line「パレスチナ、土地をめぐる戦争-オスロ合意までの経緯-」/静岡県立大学 国際関係学部 宮田律「ユダヤ人の歴史概観」/カフェ ギャラリー アメリエケイ「二つの建国物語(パレスチナとイスラエルの物語)」/ヘブライの館「イスラエル共和国の建国史」「イスラエル共和国の発展史」/NPO法人大本イスラエル・パレスチナ平和研究所「誰にでもわかるパレスチナ問題」/wikipedia/世界史の窓