聖書と歴史の学習館

中東戦争半世紀以上続くパレスチナ紛争

今なお続く中東戦争
(パレスチナにおける紛争)

中東戦争とは、1948年5月のイスラエルの建国宣言以来、イスラエル国家を承認しないアラブ諸国とイスラエル間で行われている、パレスチナの領土・主権をめぐる武力衝突のことです。1948年から1970年代にかけて、大規模な戦闘が4度にわたって起こっています。

イギリスがパレスチナ委任統治を終えた1947年、国連はパレスチナ分割決議を採択しました。パレスチナをユダヤ人国家、アラブ人国家、国際管理地区に分割するというものです。これを受け、翌年にはイスラエルが独立を宣言し、イスラエル共和国が誕生しましたが、これを認めない近隣アラブ諸国は宣戦布告し、今なお続く、中東戦争のきっかけとなりした。

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第一次中東戦争(パレスチナ戦争) 1948年5月15日~1949年7月20日

第一次中東戦争の概要

第一次中東戦争は、1948年5月15日、ユダヤ人国家であるイスラエルの建国宣言に反発したアラブ諸国がユダヤ人の領土となったパレスチナに侵攻した戦争のことです。アラブ連盟加盟国であるエジプト、イラク、シリア、トランス・ヨルダン、サウジアラビア、レバノンにパレスチナ人を加えた軍勢がパレスチナ(イスラエル)に侵攻し、今も止まない中東戦争の火蓋が切って落とされました。

アラブ諸国の侵攻から国を護るユダヤ人たちの写真

アラブ諸国の侵攻から国を護るユダヤ人たち

第一次中東戦争はイスラエルの勝利に終わりましたが、多くのアラブ人が土地を追い出され、パレスチナ難民とよばれるようになりました。

第一次中東戦争の背景

イギリスは第一次世界大戦中に「二枚舌外交」を行い、戦争有利に展開しようとしました。その内容を端的にいえば、イギリスとともに戦争に協力すれば、戦後、パレスチナという一つの領土をアラブ人とユダヤ人のそれぞれに領土を与えるという約束です。

第一次世界大戦は、イギリスを含む連合国側が勝利します。そして、パレスチナ地域の統治は、国連によりイギリスに委任されました(委任統治)。 イギリスの約束を信じたユダヤ人は、世界中からパレスチナへの移住を開始しました。パレスチナに先住していたアラブ人にとっては、降って湧いた災いのようなものです。 そして、アラブ人とユダヤ人はそれぞれのパレスチナの占有権を主張し対立します。 同時に、約束を実行しないイギリスに対して、ユダヤ人が反発し、武力闘争が活発化します。

パレスチナ統治に困難を覚えたイギリス政府は、解決を国連に委ねることになりました。 ここにイギリスの委任統治が終了し、国連は二つの民族が混在するパレスチナ地域をどう扱うのかが大きな課題となりました。 そこで国連は「パレスチナ分割案」を可決します。パレスチナを2つの民族で分割し、2つの独立国家をつくるというものです。 当時、パレスチナの人口の約3分の2がアラブ人で、3分の1がユダヤ人でした。 しかし、分割案ではパレスチナの半分以上がユダヤ人に分割されることになっていました。 当然のことながら、アラブ人は分割案に反発し、ユダヤ人は歓迎します。イスラエルの建国を宣言しました。その後、アラブ人たちが結成したアラブ諸国連盟とイスラエルとの間で第一次中東戦争が勃発しました。

第一次中東戦争の戦況

開戦当初、イスラエル側は、兵力や装備面などで圧倒的に不利でした。兵力ではアラブ側15万人に対し、ユダヤ人側は民兵3万人という圧倒的な差があり、まさに多勢に無勢でした。また、イスラエル側の主な兵器は小火器や迫撃砲であったのに対し、アラブ側は戦車と航空機を有していました。このため、イスラエルは苦戦に陥っていました。

聖墳墓教会の外に立つアブドラ国王

ヨルダン軍がエルサレム攻防戦で旧市街を制圧した翌日、聖墳墓教会の外に立つアブドラ国王(1948年5月29日)|写真:Wikipedia


第1次中東戦争に参戦した国々(交戦勢力図)

 

国連が停戦勧告を出し、6月11日には一時休戦(4週間)となりました。この間、イスラエルは、兵力としてユダヤ人を増強し、ヨーロッパから緊急に兵器を調達し、軍の改編を行いました。陸海空の国防軍を統一し、攻勢に転じました。そして、休戦期限が切れた7月9日には戦闘が再開されました。

国連は無期限停戦を強制的に要請し、7月18日には第二次休戦(~10月15日)が成立しました。この間も、イスラエル(ユダヤ人)は60万人移民計画を推進し、兵備を整え、10月15日からシナイ半島と北部ガリリー地方に進出しました。アラブ連盟側の連携がとれていなかったこともあり、イスラエル側の形勢が有利になっていきました。

第一次中東戦争の停戦と結果

翌年1949年1月から7月にかけて、エーゲ海のロードス島でイスラエルとアラブ連合各国とのあいだで停戦交渉が行われました。2月24日にイスラエル-エジプト間の停戦協定が成立し、その後、3月にはイスラエル-レバノン間、4月にはイスラエル-トランス・ヨルダン間、さらに7月にはイスラエル-シリア間の停戦協定が調印されました。 この停戦協定では「グリーンライン」とよばれる境界線が定められ、現在もなお国際的に認知されているイスラエルの領土を示す国境です。これによりイスラエルの占有地は国連分割議案による占有地より上回る結果(※)となりました。

※パレスチナの総面積26,328km2のうち、20,850km2をイスラエルが占有しました。これは全土の80%を占めており、残った20%をトランス・ヨルダンが占有しました。このとき、聖地エルサレムは、旧市街をトランス・ヨルダンが、新市街をイスラエルが占領し、完全に二分されました。

結果として、多くのアラブ人は、居住地を失って、難民となりました。難民となったアラブ人は「パレスチナ難民(アラブ難民)」とよばれるようになり、国連の推定で725,000人に達しました。パレスチナ領(アラブ人が居住していた土地)として、唯一、ガザ地区(365km2、福岡市よりやや広い)が残され、19万人にのぼるアラブ難民が殺到したといわれています。

※第一次中東戦争の停戦協定のイスラエルはパレスチナの約80%を占領しました。しかしながら、イスラエルにとっては、不満が残りました。肝心のユダヤ教の聖地「嘆きの壁(東エルサレム)」が、アラブ諸国側(トランス・ヨルダン)の占領下となってしまったからです。


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第二次中東戦争(スエズ戦争) 1956年10月29日~11月6日

第二次中東戦争の概要

第二次中東戦争(別名:スエズ戦争)は、エジプト(ナセル大統領)によるスエズ運河会社の国有化宣言に反発したイギリスが、フランスとイスラエルに働きかけ、3カ国協同でエジプトに侵攻した戦争です。エジプトが三国軍に侵攻され、軍事的には敗北しましたが、国際世論の非難を受けて停戦・撤退しました。

第2次中東戦争に参戦した国々(交戦勢力図)

 

第二次中東戦争の原因

エジプトは工業化を目指しており、電力が必要でした。そのためナイル川の上流にアスワン=ハイダムの建設を計画しました。これにはアメリカも資金を提供する予定でしたが、当時は冷戦の只中であり、エジプトがソ連陣営側の態度をとっていたため、アメリカは資金援助を行いませんでした。そこで、エジプトのナセル大統領は、ダム建設に必要な資金をスエズ運河から調達すべく、1956年、スエズ運河会社の国有化を宣言します。

当時、イギリス・フランスはスエズ運河会社の二大株主として利益を得ていました。特にイギリスは、実質的にスエズ運河の経営権を握っていました。エジプトによる国有化により、利権を失うだけでなく、運河を航行する自由がなくなることを懸念し、国有化宣言に反発したのです。

スエズ運河会社

スエズ運河会社(1858年設立

※スエズ運河は、ヨーロッパとアジアを結ぶ航路であり、今も地理的には重要な役割を果たしています。

また、フランスは、同じ時期に展開されていたアルジェリア戦争(※)の背後にナセルがいると考えていました。フランスは、ナセル政権を倒し、戦争を収束に向かわせる意図もあり、参戦しました。

※アルジェリア戦争とは、1954年から8年間にわたって行われたアルジェリア独立戦争のことです。フランスの植民地支配に耐えかねたアルジェリアの民衆は、1954年アルジェリア民族解放戦線(FLN)の指揮下で武装闘争に立ち上がりました。

イスラエルは、アラブ諸国の中心国(盟主)であるエジプトを弱体化させ第一次中東戦争でエジプトから得た領土のさらなる拡大し狙っていたため、イギリスの働きかけにより参戦しました。

第二次中東戦争の戦況

1956年10月22日にはイギリスが主体となって働きかけたフランス・イスラエルによる連合作戦が完成。その7日後の10月29日にはイスラエル軍がエジプトのシナイ半島に侵攻し、1週間でシナイ半島を制圧してしまいました。

イスラエル軍の侵攻の翌30日、イギリスとフランスはスエズ運河の安全を守るためとして、イスラエル軍とエジプト軍の双方に対して撤退を要求します。エジプト軍がそれに応じないことを口実として、エジプトの空軍基地やラジオ局を爆撃し、さらに地上部隊を上陸させてスエズ地区へ侵攻しました。

スエズ戦争 イギリスとフランスによる最初の攻撃

イギリスとフランスによる最初の攻撃で、スエズ運河の側にある石油タンクから煙が立ち上った(1956年11月5日)|写真:Wikipedia

第二次中東戦争は、スエズ運河をめぐるイギリスとエジプトの対立という構図を越えて、フランスによる植民地に反対するアルジェリア民衆の制圧、およびイスラエルの抱えるパレスチナ問題と結びつき、戦火を拡大させました。結果として、イスラエルはシナイ半島、イギリスとフランスはスエズ地区を占領しました。

第二次中東戦争の停戦

国連緊急会合

国連緊急会合(1956年11月2日)

エジプトはイスラエル・イギリス・フランスの三国軍に侵攻され、苦戦に陥りました。しかし、ここで大逆転が起こります。国際世論は3カ国の侵攻を非難し、エジプトを支持する声が高まったのです。アメリカはイギリスとフランスに援軍を派遣せず、イギリスに対する経済的圧力をかけて即時停戦を要求し、ソ連は英仏に対してミサイルで報復すると警告しました。

アメリカは国連の安全保障理事会に停戦・撤兵を求める決議案を提出。1956年11月2日には国連緊急特別総会が開かれました。決議案はイギリスとフランスが拒否権を行使したものの、アメリカ・ソ連の両大国の支持を得て、イスラエルの即時撤退と停戦を求める決議が採択されました。

当時は、アメリカの影響力がイギリスやフランスよりも強大であり、アメリカが要求した停戦要求に従わざるを得ませんでした。また、イギリス・フランスは、冷戦の只中、アメリカが民主主義陣営である自らとは協力関係にはならず、共産主義陣営のソ連が協力関係となったことは、想定外のことであり、大きな誤算でした。

結局、国連緊急軍が派遣され、1956年11月6日には第二次中東戦争は停戦に至り、イギリス軍・フランス軍は12月までに、イスラエル軍は翌年3月に占領地域からやむなく撤退をしました。しかしその後も、アラブとイスラエルの間の中東戦争は、第3次へと展開していくこととなります。

第二次中東戦争の結果

第二次中東戦争(スエズ戦争)では、エジプトは軍事的には敗北したものの、国際世論の後押しにより、スエズ運河のエジプト国有化実現し、政治的には成功を収め、本格的に国内建設に乗り出しました。同時にナセルは一躍「アラブの英雄」となりました。

ナセルをたたえる人々

戦争に負けてもアラブの英雄となったエジプトのナセル大統領

一方、イギリスとフランス、イスラエルは国際政治において孤立化し、立場が弱体化するような結末を招きました。イギリス・フランスは中東から脱落し、アメリカ・ソ連の両国は、中東における威信を高め、主導権を強めていきました。


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第三次中東戦争(六日間戦争) 1967年6月5日~6月10日

第三次中東戦争の概要

第3次中東戦争は、1967年6月、イスラエルがエジプトに奇襲作戦を仕掛け、国連決議で停戦するまでのわずか6日間の短期電撃戦でシナイ半島、ガザ地区、ゴラン高原、ヨルダン川西岸など、それまでの自国の3倍の地を軍事占領し、イスラエルが圧倒的勝利を収めた戦争です。第3次中東戦争は戦争状態が6日間だったことから、「六日戦争(※)」ともよばれています。敗北したエジプトのナセル大統領の指導力が衰えることとなりました。

※「六日間戦争」はイスラエル側の呼称です。アラブ側では「六月戦争」とよんでいます。

第3次中東戦争に参戦した国々(交戦勢力図)

 

第三次中東戦争の背景

第二次中東戦争以降、中東情勢は一時的に落ち着いたかにみえました。しかし、第二次中東戦争で国際世論で厳しい非難を受けて、国際社会から孤立したイスラエルは建国以来、最初の窮地に立たされていました。情勢を打開したいイスラエルは、エジプトおよびアラブに対する攻勢を機会を狙ってました。また、1964年、エジプトのナセル大統領をはじめとするアラブ連盟の支援により、イスラエルによって占領されているパレスチナのアラブ人の解放を目指すためアラファト議長を中心に「パレスチナ解放機構(PLO)」が結成され、再び緊張の高まっていきました。

第三次中東戦争の戦況

ゴラン高原を前進するイスラエル軍

ゴラン高原を前進するイスラエルの戦車

1967年6月5日午前7時45分、イスラエル軍はエジプト軍によるアカバ湾の封鎖に対する反撃を口実として、 エジプト空軍基地に奇襲攻撃で爆撃し、わずか2時間でエジプト空軍は壊滅させました。 エジプト空軍が壊滅し、もはやエジプトは反撃能力を失っていました。 翌日から、イスラエル陸軍はエジプト領のシナイ半島とガザ地区を制圧し、スエズ運河地帯まで進撃しました。 6月5日~7日には、ヨルダン領ヨルダン川西岸地域を占領。7日午前10時15分には、ヨルダンが支配していた東エルサレムを占領し、全エルサレムを実効支配しました(※1)。 6月9日~10日に、シリア領ゴラン高原を占領しました。国連安全保障理事会は10日12時30分に停戦決議を可決し、イスラエルとエジプトはこれを受諾しました。

※1:第三次中東戦争で、エルサレムの神殿の丘がイスラエル軍の手に落ちました。神殿の丘は、ハラム=アッシャリーフ(高貴な聖域)といわれ、1187年にサラディンに率いられたイスラーム教徒軍が十字軍から奪回した場所でした。以来780年もの間、イスラーム教徒の手にあったこの丘が、イスラエル軍の手に落ちました。ユダヤ人は歓喜したものの、イスラーム教徒の落胆と怒りは激しかったといわれています。

第3次中東戦争の戦闘はわずか6日間で、イスラエルの圧倒的な勝利となりました。このため「六日間戦争」ともよばれています。

第三次中東戦争の結果

エジプトのナセル大統領は敗戦の責任をとって辞任を決意したものの、国民の反対の声が強く、辞意を撤回しました。また第三次中東戦争の結果、イスラエルが占領した地域では、ユダヤ人の入植が進みました。同時にパレスチナ難民が100万人以上発生し、ほとんどがヨルダンに避難し、国土を奪われたアラブ諸国側には、イスラエルに対する強い不満が残りました。多くのアラブ人が故郷パレスチナから追い出されて、今も難民キャンプで暮らしています。

1967年11月には、国連でイスラエルの占領を無効とする決議が可決されました。しかし、撤退の期限が定められていないため、イスラエルは現在も占領した地域の一部を支配し続けています。これにより、イスラエルの国際的孤立化などをもたらしました。

消耗戦争

第三次中東戦争で国土を奪われたアラブ諸国側には、イスラエルに対する強い不満が残りました。このため停戦後もエジプト軍はスエズ運河東岸のイスラエル軍陣地を狙って砲撃やコマンド部隊による襲撃を繰り返しイスラエル軍との間で武力衝突が断続的に発生しました。1970年まで続いたこの対立は「消耗戦争(1969年3月~1970年8月)」とよばれています。

消耗戦争に参戦した国々(交戦勢力図)

 


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第四次中東戦争(10月戦争)1973年10月6日~10月24日

第四次中東戦争の概要

第四次中東戦争は、1973年10月、エジプトのサダト大統領が、第三次中東戦争によりイスラエルに占領された土地の奪還を目的に起こした大規模な軍事衝突のことです。10月6日、アラブ諸国(エジプト、シリア)軍によるイスラエルへの奇襲に端を発し、10月23日(開戦後17日)で停戦となりました。

イスラエルでは開戦の日がちょうどユダヤ教の祝祭日ヨム=キプール(贖罪の日)だったので、「ヨム・キプール戦争」とよび、アラブ諸国では「十月戦争」または「ラマダーン戦争」とよんでいます。

第4次中東戦争に参戦した国々(交戦勢力図)

 

第四次中東戦争の戦況

1970年にエジプトのナセル大統領が死去すると、サダトがエジプトの大統領となりました。サダトは第三次中東戦争で奪われたシナイ半島などの奪還しすべく、軍備増強を密かに進めていました。

1973年10月6日午後2時、アラブ諸国(エジプト、シリア)軍は、イスラエルに対して先制攻撃(奇襲)を開始します。 エジプト軍によるスエズ渡河作戦は成功。これに呼応して シリア軍もゴラン高原を攻め込み、イスラエル占領地に対し戦車部隊で進出しました。 による進出をみせた。 その後もアラブ諸国軍の優勢な状況が続き、 イスラエル軍は後退を余儀なくされました。 イスラエル軍不敗の神話が崩れ、 中東戦争で初めてアラブ側が勝利するかのようにみえました。

ゴラン高原の野原に大砲を持って立っているイスラエル軍

ゴラン高原に立つイスラエル軍(1973.10.17)

しかし、イスラエル軍は開戦後72時間で体制を整え、反撃に転じます。 ゴラン高原でシリア軍の進攻を阻止し、逆にシリア領内に進撃し、第3次中東戦争での占領地をさらに拡大しました。 スエズ戦線でもエジプト軍とイスラエル軍との間で激戦が続きました。 国連安保理事会は、停戦決議を可決し、1973年10月24日午前9時に停戦となりました。


05/06

石油危機(オイルショック)

アラブ産油国は1973年10月11日から石油戦略の発動を検討していました。 10月17日には、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)10力国による「石油相緊急会議特別決議」を可決され、イスラエルを支持する国(親イスラエル諸国)に対して、石油禁輸措置がとられました(石油戦略)。 ほぼ同時に石油輸出国機構OPECが原油価格を約4倍も引上げたために、 日本や欧米諸国に、いわゆる「石油危機(オイルショック)」がもたらされ、石油輸入国は大きな打撃を受けました。

オイルショックのときには、日本でもガソリンや灯油をはじめ、石油を燃料とする工業製品も不足し、値上りしました。トイレットペーパーを求めて、客が殺到する様子がよく見られました。消費者物価指数の前年比は1973年は11.7%、1974年には23.2%となり、急激なインフレが起こりました。このとき、「省エネルギー」、「省資源」という言葉が流行しました。大都市では、電力節減の対策がとられ、ネオンサインも消えました。 1974年の春に、石油禁輸措置は撤廃され、石油危機も急速に薄らいでいきました。

1978年9月17日、米国主導の単独和平交渉によりキャンプ=デーヴィッド合意が成立します。 1979年3月26日には、エジプト・イスラエル平和条約が調印されました。


06/06

中東戦争とパレスチナ難民

中東戦争は、大きなもので、これまで4次にわたりました。いずれもイスラエル側が優勢でした。これはアメリカの後ろ盾があったからといわれています。また、ユダヤ人の中には、第2次世界対戦に参戦した人が多く、戦術に長けていたことともその理由といわれています。そして、ユダヤ人は、当初の国連分割案よりも、さらに多くの土地を手に入れ、さらには、国際管理地区の聖地エルサレムをも占拠する勢いでした。今ではパレスチナの80%を領土としています。

結果として、多くのアラブ人は、土地を失って、難民となりました。難民となったアラブ人は「パレスチナ難民」と呼ばれるようになりました。

※中東問題(中東戦争など)で難民となったアラブ人は、「自らの故郷をパレスチナ」とする強い自覚が生まれ、「パレスチナ人」という呼称ができました。つまり、パレスチナ人とは難民となったアラブ人のことで、もともと「パレスチナ人」という人種や民族がいたわけではありません。現在では、中東地域に住むアラブ人を「パレスチナ人」と呼ぶことが一般的になっています。

その後も、アラブ人はパレスチナ開放を掲げ、過激な行動でイスラエルを攻撃してきました。それに対し、イスラエルも武力で対抗するなど、対立は続きます。

このようにパレスチナでは、今もやまない紛争が続いており、この一連の争いを「中東問題」あるいは「パレスチナ問題」と呼んでいます。

※アラブ人ほとんどはイスラム教徒です。イスラム教徒の一部のアラブ人が、土地を奪還しようと過激な行動をして、ニュースで報道されることも少なくありません。9.11でアメリカがイスラムの過激派に攻撃されたのは、アメリカがユダヤ人に味方するからといわれています。このことが、報道されることはないようですが、事件の肝は、パレスチナ問題にあるといわれています。

〔出典・参考〕
中経出版「図解/池上彰の世界の宗教が面白いほどわかる本」/NHK高校講座「世界史」/カラフルマーケティング株式会社「Study-Z」/教材工房「世界史の窓」/wikipedia