第一次世界対戦中/中東・パレスチナ問題

第一次世界対戦中(中東・パレスチナ問題)

第一次世界大戦中におけるイギリスの外交政策は「三枚舌外交」と揶揄されることがある。アラブ人と結んだ「フサイン・マクマホン協定」、イギリス・フランス・ロシアで結んだ「サンクス・ピコ協定」、ユダヤ人と結んだ「バルフォア宣言」。これらは戦争に勝利したら、パレスティナを含む同じアラブ地域にそれぞれの民族の国家建設を支援するという協定であると同時に、三国間の分割統治協定でもあった。 それが、現在に至るパレスチナ問題の遠因を形成したとされる見方もある。

1915年
10月

フサイン・マクマホン協定

第一次世界対戦当時、アラビア半島には、オスマン帝国の統治に不満を持つアラブ人がいた。そこで、イギリスのマクマホン(駐エジプト高等弁務官)は、アラビア半島に住む、アラブ民族の有力者フサイン(メッカの太守)に近づいた。彼らにオスマン帝国への反乱を起こさせ、イギリスにとって戦争を優位に展開しようとする目論見があった。
イギリスのマクマホンはフサインに、「アラブの人々がオスマン軍に勝利した暁には、アラブ独立国家の建設を支援しよう」と持ちかけた。オスマン帝国からの独立を夢見ていたフサインは、これに同意。思惑が一致したイギリスとアラブは、1915年に「フサイン・マクマホン協定」を結んだ。翌年の1916年、アラブの反乱が始まった。

1916年
5月

サイクス・ピコ協定

フサイン・マクマホン協定を結んだ翌年、イギリスは、アラブの人を裏切るような外交を展開していた。オスマン帝国を滅ぼし、パレスチナを手に入れたら、イギリス・フランス・ロシアで、オスマン帝国の領土を、分割統治する秘密協定を結んだ。それが1916年の外交政策「サイクス・ピコ協定」である。

Sykes-Picot Agreement/Source:Stars and Stripes

1916年
6月~

アラブの反乱

The 1916-1918 Arab Revolt fighters
Souce:wikimedia.org

1916年6月、フサイン・マクマホン協定に基づき、アラブは反乱を起こした。1917年、オスマン帝国最大の補給港となっていたアカバを攻め落とすことに成功。アラブ軍は一気に優位に立った。1918年には、アラブ軍は、イギリス軍と共同で、オスマン帝国最大の軍事拠点だったダマスカスを攻撃。アラブ軍はオスマン軍を倒し、アラブの臨時政府を置いた。

1917年
11月

バルフォア宣言

1917年、戦費が不足していたイギリスは、ユダヤ人の財閥(※)に資金援助を求た。その引き換えとして、「オスマン帝国からパレスチナを奪ったら、ユダヤ人のための祖国(National Home/国民的郷土)の建設を支援する」と約束した。これが「バルフォア宣言」である。

※ユダヤ人の財閥…大富豪家のライオネル・ロスチャイルド

Balfour portrait and declaration/Source:wikimedia.org

His Majesty's Government view with favour the establishment in Palestine of a national home for the Jewish people, and will use their best endeavours to facilitate the achievement of this object
英国政府は、ユダヤ人がパレスチナの地に国民的郷土を樹立することにつき好意をもって見ることとし、その目的の達成のために最大限の努力を払うものとする。

外務大臣 A.バルフォアがロスチャイルド卿に宛てた手紙の抜粋

しかし、「バルフォア宣言」は、先のフサイン・マクマホン協定に矛盾する。端的にいえば、アラブ人とユダヤ人の2つの民族に対して、パレスチナという一つの領土を与えるという約束をしていることになるからある。これは、イギリスの「二枚舌外交」と呼ばれており、現在に至るパレスチナ問題の遠因といわれている。

※1916年のサイクス・ピコ協定では、パレスチナの住民とは全く無関係な外交舞台で動かされていた。「フサイン・マクマホン協定」、「サイクス・ピコ協定」「バルフォア宣言」に対して、イギリスの「三枚舌外交」と呼ばれている。


〔参考・引用〕
中経出版「池上彰の世界の宗教が面白いほどわかる本」/NHK高校講座「世界史」/国際医療協力ネットワークニュース_2009年秋号/Hiroshi UEHARA on Line「パレスチナ、土地をめぐる戦争-オスロ合意までの経緯-」/静岡県立大学 国際関係学部 宮田律「ユダヤ人の歴史概観」/ヘブライの館「イスラエル共和国の建国史」/wikipedia