イギリスの外交政策 中東パレスチナ問題

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発端はイギリスの外交政策

世界に離散したユダヤ人

紀元前11世紀、神がイスラエル民族(=ユダヤ民族/ユダヤ人)に約束した土地カナン(今のパレスチナ)にイスラエル王国が建国されました。ユダヤ民族の始めての国です。ソロモン王のときには、栄華を誇り、神殿を建設。しかしその後は、王国が分裂、他国による統治などを経て、紀元70年にはローマ帝国によって、神殿とともに王国が完全に滅ぼされました。その後、ユダヤ人はヨーロッパ各地に離散(※)し、差別と迫害の憂き目にあってきました。

※ユダヤ人の離散のことを「ディアスポラ/Diaspora」といいます。


パレスチナに住み着いたアラブ人

1453年、東ローマ帝国は、イスラム教国家であるオスマン帝国に滅ぼされます。その後、パレスチナには、おもにアラブ人(※)が居住するようになります。その後、1919年の第一次世界大戦の終結まで、パレスチナのアラブ人は、オスマン帝国の統治下にありました。

※アラブ人=一般的には「アラビア語を話し、イスラム教を信仰する民族」のこと。


第一次世界大戦に突入

20世紀初頭、ヨーロッパの列強は、産業の発展を競う帝国主義により、植民地をめぐって対立が激しくなっていました。特に、イギリス(大英帝国)は、世界各地に植民地があり、世界の覇権国家としての地位を占めていました。

イギリスが、さらなる植民地として目をつけたのがパレスチナ。パレスチナを手に入れれば、インドなど他の植民地への行き来がしやすくなるなど、大きなメリットがあったからです。上記のとおり、当時、パレスチナはオスマン帝国の統治下にありました。


大英帝国の植民地/1919年

イギリス(大英帝国)の植民地/1919年
大英帝国はその全盛期には世界史上最大の帝国でした

1914年 第一次世界大戦に突入します。イギリス・フランス・ロシアなどの連合国に対して、当時、中東地域を支配していたオスマン帝国は、同盟国側のドイツの援助を受けて参戦を決めました。戦火はヨーロッパから中東地域へと広がっていきました。


イギリスの外交政策

第一次世界大戦中、イギリスは、アラブ人との「フサイン・マクマホン協定/1915年」、フランス・ロシアとの「サイクス・ピコ協定/1916年」、ユダヤ人に対する「バルフォア宣言/1917年」という、3つの外交政策を展開します。これら3つの外交政策は、イギリスが戦争を有利に展開するという意図がありました。しかしそれは、今日まで残る中東の対立(中東問題/パレスチナ問題)を生む発端となってしまいました。

●フサイン・マクマホン協定(対アラブ人/1915年10月)

第一次世界対戦当時、アラビア半島には、オスマン帝国の統治に不満を持つアラブ人がいました。イギリスのマクマホン(駐エジプト高等弁務官)は、アラビア半島に住む、アラブ民族の有力者フサイン(メッカの太守)に近づきます。彼らにオスマン帝国への反乱を起こさせ、戦争を優位に展開しようとしたのです。
イギリスのマクマホンはフサインに、「アラブの人々がオスマン軍に勝利した暁には、アラブ独立国家の建設を支援しよう」と持ちかけます。オスマン帝国からの独立を夢見ていたフサインは、これに同意します。思惑が一致したイギリスとアラブは、1915年「フサイン・マクマホン協定」を結びます。翌年の1916年、アラブの反乱が始まりました。

●サイクス・ピコ協定(対フランス・ロシア/1916年5月)

フサイン・マクマホン協定を結んだ翌年、イギリスは、アラブの人を裏切るような外交を展開していました。オスマン帝国を滅ぼし、パレスチナを手に入れたら、イギリス・フランス・ロシアで、オスマン帝国の領土を、分割統治する秘密協定を結びます。それが1916年の外交政策「サイクス・ピコ協定」です。

●バルフォア宣言(対ユダヤ人/1917年)

1917年、戦費が不足していたイギリスは、ユダヤ人の財閥(※)に資金援助を求めます。その引き換えとして、「オスマン帝国からパレスチナを奪ったら、ユダヤ人のための祖国(National Home/国民的郷土)の建設を支援する」と約束しました。これが「バルフォア宣言」です。

ユダヤ人の財閥…大富豪家のライオネル・ロスチャイルド

3つの宣言・協定の中で、アラブ人との約束(マクマホン宣言)とユダヤ人との約束(バルフォア宣言)とは特に矛盾していると言われています。端的に言えば、ユダヤ人とアラブ人の2つの民族に対して、パレスチナという一つの領土を与えるという約束をしたとみなされるからです。

長引く戦争によって、イギリスは戦費が不足していました。戦争を早く終わらせたかったイギリスは、味方同士や中立国との間で、複雑な密約を交わすしかなかったのです。

※この3つの宣言・協定に対して「(イギリスの)三枚舌外交」と呼んでいます。アラブ人とユダヤ人の対立という視点から、サイクス・ピコ協定を除いて「二枚舌外交」と呼ぶ場合があります。


アラブ人とユダヤ人の対立の激化

第一次世界大戦は、1919年に終結。イギリスを含む連合国側が勝利し、パレスチナを統治していたオスマン帝国を含む中央同盟国側は敗れます。そして、パレスチナ(イスラエル・ヨルダン・イラク)は、イギリスの委任統治下に入り(※)、1920年には実質的に植民統治を開始します。

※委任統治…第一次世界大戦後、国際連盟の委任のもとに、戦勝国が敗戦国の植民地などに対して行った統治(kotobank.jpより)。

※現在のシリア、レバノンはフランスの委任統治領になりました。

パレスチナでは、「バルフォア宣言」を信じたユダヤ人はパレスチナへ次々と移住してきます。さらに、1933年頃からは、ナチスによるユダヤ人迫害がはじまり、ユダヤ人の移住に拍車がかかります。パレスチナは、ユダヤ人とアラブ人が混在する地となっていきました。

先住のアラブ人にとっては、降って湧いた災いのようなものです。突然、パレスティナにユダヤ人が移住してきて、次々と土地を買収します。ユダヤ人が、パレスチナを自分たちの国にしようとすることで、アラブ人の生存権が脅かされることになりました。これを容認できないアラブ人との摩擦は激しくなっていきます。1936年には、アラブ人の不満が爆発し「アラブの大蜂起」が起きます。

さらに、第二次世界大戦中には、ナチスドイツによるユダヤ人のホロコーストが激化し、ユダヤ人の移住に拍車がかかります。同時に、アラブ人とユダヤ人との対立も激化していきます。あまりの激しさにイギリスは手に負えなくなり、結局、問題の解決を国連に委ねることとなりました。



〔参考・引用〕
中経出版「図解/池上彰の世界の宗教が面白いほどわかる本」/NHK高校講座「世界史」/wikipedia