聖書と歴史の学習館

聖遷と聖戦ヒジュラとジハード

ムハンマドの聖遷(ヒジュラ)と聖戦(ジハード)は、イスラームの歴史において重要な出来事および概念です。聖遷は預言者ムハンマドとその信者たちがメッカからメディナに移住した出来事を指します。ムハンマドとその信者は622年にメディナに到着しました。この聖遷はイスラームの歴史上で非常に重要で、イスラーム暦(ヒジュラ暦)の始まりともなっています。聖遷はムハンマドによって指導される共同体(ウンマ)の形成とイスラーム社会の基礎を築く契機となりました。聖戦(ジハード)はアラビア語で「努力」や「奮闘」を指し、イスラームでは、個人的・精神的な努力から、物理的な戦闘まで、広い意味を持っています。ジハードは信者が信仰のために努力し、社会的な正義を実現するために戦うことを奨励する概念です。

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聖遷(ヒジュラ)

ムハンマドは、610年にヒラー山で啓示を受けて以降、メッカでのイスラームの布教活動を行っていました。 当時のメッカは、クライシュ族による血縁者社会が根付いており、ムハンマドの教えはこれをイスラーム信仰に変え、共同体を築くことを目指していました。

※クライシュ族:4世紀頃からメッカ近郊を勢力圏として遊牧および交易を行っていたアラブ人の部族。ムハンマドの出身部族。

クライシュ族の人々は、ムハンマドの活動により、自らの地位や利益を脅かすのではないかと考え、ムハンマドとその信徒を迫害し始めました。メッカの有力者や大商人、そして多神教を信仰する者たちが反発し、ムハンマドが生まれたハシーム家の人々もイスラーム教徒を非難するようになりました。

※ハーシム家:クライシュ族に属しており、ムハンマドの曽祖父ハーシム(西暦500年頃没)の一門。のちのアッバース朝を築きました。

619年、ムハンマドを支え続けた妻ハディージャと叔父アブ・ターリブが相次いで亡くなりました。これによりムハンマドは孤立し、さらに彼を襲うべきとされる暗殺計画も進行中でした。イスラーム教徒はこの年を「悲しみの年」と呼んでいます。

この危機的な状況から脱出するため、ムハンマドは622年になって約70人の信徒と共にメディナに移住することを決断しました。この出来事は「聖遷(ヒジュラ)」と呼ばれています。ムハンマドのメディナでの活動により、イスラームは発展し続け、その後の歴史に大きな影響を与えました。622年の「聖遷」は、イスラム教徒にとっては重要な節目となり、イスラム暦の元年とされました。

※メディナ:当初「ヤスリブ」という地名でしたが、後に「預言者の町」を意味する「メディナ」に改名されました。

メッカからメディナへ移住(聖遷)

メッカからメディナへ移住(聖遷)


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聖戦(ジハード)

ムハンマドがメディナに移住した後、彼は信者たちと共にイスラーム教徒の共同体「ウンマ」を形成し、組織を強化して布教の準備を整えました。同時に、メディナでの対立を考慮し、多神教徒やユダヤ教徒との安全保障協定「マディーナ憲章」を締結しました。

その後、ムハンマドはメッカへの進軍計画を立て、これがいわゆる「聖戦(ジハード)」として知られています。624年には、クライシュ族を中心とするメッカの大隊商をバドルの地で待ち受け襲撃し、勝利を収めました。この戦闘はメッカへの復讐だけでなく、ジハードの努力目標の一環として、物資を獲得し経済基盤を広げるものでした。

その後も、ウフドの戦い(625年/メッカ側の勝利)やハンダクの戦い(627年/メディナ・ムハンマド側の勝利)が続きました。聖戦(ジハード)は、異教徒に対する戦いであり、イスラム世界の防衛と拡大を目指すものでした。イスラーム教徒には義務とされ、戦死者は殉教者と見なされ、最後の審判を経ずに天国に入れるとされていました。これが、イスラム軍の高い士気と強大な力に繋がりました。

そして、630年1月、ムハンマドは軍を率いてメッカを急襲し、ほとんどの抵抗なくメッカを陥落させました。ムハンマドはカーバ神殿に入り、多神教の偶像を破壊し、神殿をアッラー(唯一神)の聖域にしました。メッカはこれによりイスラム教の聖地となり、632年にはムハンマドがアラビア半島を統一しました。

カーバ神殿(1907年)<br />メッカ(サウジアラビア)の写真

カーバ神殿(1907年)- メッカ(サウジアラビア)

※現在カーバ神殿の中は何もありません。唯一、神殿の壁の一カ所に「カーバの黒石」と呼ばれる石がはめ込んであるだけといわれています。

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ジハードの2つの意味内的ジハードと外的ジハード

「ジハード」には、2つの重要な意味が込められています。一つは「内的ジハード」であり、これは個人が自らの信仰を深めるために心の中で悪との戦い(奮闘・努力)を指します。もう一つは「外的ジハード」であり、これはイスラーム共同体外部への侵略戦争や、共同体を外部からの脅威から守るための戦い(聖戦)を指します。

ムハンマドは戦闘から帰還した際、「私たちは小さなジハードから大きなジハードに戻る。」と述べ、この言葉が広く伝えられています。ここで言う小さなジハードは外的ジハードであり、大きなジハードは内的ジハードを指しています。内的ジハードは、個人が自らの信仰を深め、心の中で精神的な闘いを続けることで、道徳的な成長や善行を達成するための積極的な努力を指します。内的ジハードは、外的ジハードに先立つ重要な要素とされています。外的ジハードは、イスラーム共同体を外部の脅威から守り、信仰を広めるための武力行使を指します。

ジハードは単なる武力行使だけでなく、個人の成長や共同体の安全を含む包括的な概念であり、この二重の側面がイスラーム教徒にとって重要な教義となっています。

〔出典・参考〕
中経文庫「池上彰の世界の宗教が面白いほどわかる本」/「松岡正剛の千夜千冊」/wikipedia