人間の矛盾 幸福と不幸 人間の堕落

こちらは「前の記事」からの続きです

人間の矛盾

(前の記事までの概要)

人間の心には、「本心」と「邪心」が存在します。

「本心」からは「善なる欲望(善い欲望)」が生じ、「邪心」からは「悪なる欲望(不義なる欲望)」が生じます。

「善なる欲望(善い欲望)」は「幸福(幸せ)」に繋がり、「悪なる欲望(不義なる欲望)」は「不幸」に繋がります。

人間は誰しも「不幸」を求めて生きているわけではなく、「幸福」を求めて生きており、「人生の目的は幸福になること」といえます。


正反対の目的が実現されてしまう

私たち人間は「幸福になる」ということを目的として、生きているのに、「邪心」から「不義なる欲望」が生じ、それを制御(コントロール)できないときには、「悪」が生じ、「不幸」に陥ってしまいます。

また、「邪心」を「邪心」として認識できず、悪気がなく、心の思うままに行動したら「不幸」になってしまったということもあります。この場合、後になって気がついて、「何であんなことをしてしまったのだろう」と本心の呵責(良心の呵責)が起こります。

つまり、人間はあるときには「幸福」になり、あるときには正反対の「不幸」が達成されてしまうのです。これは、一見すると、人間の性(さが)のようですが、視点を変えて、身近な例にあてはめてみると大変おかしなことに気が付きます。


デジタルカメラの例

例えば、デジタルカメラのシャッターは、押すことにより、景色を写して、メディアにデータを記録するという目的を持って作られています。ところが、シャッターを押すと、時々、景色を写さず、メディアに記録しているデータを消してしまうということが起こったらどうでしょうか。

つまり、このカメラのシャッターは、「写した景色(データ)をメディアに記録する」という目的と「写した景色(データ)をメディアから消去する」という正反対の目的を同時に持っていることになります。この状態は「シャッターが壊れている」または「カメラが壊れている」と言えるでしょう。哲学風にいえば「このカメラは矛盾している」と表現されます。

※他にも、コップを例として、説明されることがあります。コップは、水を入れる目的に存在するものです。しかし、水を漏らすという正反対の目的も同時に持ってしまった場合(つまり穴があいたコップ)は、もはやコップの役割は果たさず、コップとしては存在できません。つまり「壊れたコップ」、「矛盾したコップ」となってしまいます。


人間の矛盾と堕落

上記のカメラやコップの例と同じように考えた場合、「人間は壊れている。」、「人間は矛盾している」といえるでしょう。つまり、人間という一つの存在が、あるときは、善を行ない、またあるときは正反対の悪を行なっているからです。さらには、人間は「幸福」と「不幸」という、正反対の2つの目的を実現しています。このように人間が矛盾した状態を(主にキリスト教や哲学で)「堕落している」と表現します(※)

※人間の堕落…現在とは違う「本来の人間」の姿(状態)があり、現在の人間は「偽りの人間」すなわち「堕落した人間」であるという考え方です。キリスト教では、堕落した人間を救うために、キリストが再臨すると説かれています。また、仏教でも、人間本来の理想の姿(境地)を「涅槃寂静」「灰身滅智」などと表現しています。


〔補足〕ここでは、「不幸」になる要因を「邪心(=悪なる心)」としています。しかし、見かけ上「邪心」に起因しない「不幸」も存在します。例えば、純粋な気持ちで異性に好意を抱いて、勇気を出して告白したが、振られてしまったとき、「恋心」を必ずしも「邪心」とは、呼べないでしょう。他にも、突然の事故や急な病気によって引き起こされる「不幸」などは、見かけ上「邪心」に起因しない「不幸」です。これらの「不幸」を知るためには、「邪心」の本質的な部分(起源、ルーツ)を解明する必要があるようです。