聖書と歴史の学習館

人間の矛盾性幸福と不幸

人間の矛盾性とは、本心に起因する「善」を行おうとする欲望と邪心に起因する「悪」を行おうとする欲望の相反する2つの欲望が一つの個体の中に同時に存在していることです。私たちは、「善」を行って、心の充足感を得ようとする欲望がありますが、同時に「悪」を行なって心の充足感を得ようとする欲望も持っています。前者は本然の幸福が得られ、後者からは一時的に幸福を感じますが、結局は呵責を感じ、本然の幸福は得られません。「善」と「悪」のどちらも欲望から行動した到達点(結果・目的)です。

01/05

幸福と不幸

人間には「幸福」になりたいという欲望があり、「幸福」を目標にして生きています。しかし、現実を見ると「幸福」になろうとして行動したつもりが、正反対の「不幸(※)」になってしまう場合も少なくありません。

金欲や性欲、出世欲に関係する犯罪が最たる例で、日々、テレビや新聞などで報道され、悲惨な様子が写されています。これらの犯罪行為は本人だけでなく、他人をも不幸にしてしまいます。

しかし、たとえ犯罪行為であったとしても、本人にしてみれば「幸福なろう」として行動した結果であり、はじめから「不幸になろう」と思って行動したわけではないはずです。


02/05

義なる欲望と不義なる欲望

人間は誰しも幸福を求めて生きています。私は「不幸になるために生きている」という人はいません。悪人と呼ばれるような人間でも、幸福を得ようとして「悪」を行うのです。人生の目的(人間のすべての営み)は幸福になることといえるでしょう。

「幸福」という目的は、欲望が満たされることにより実現します。しかし、欲望が満たされて、一時的に幸福を感じても、結局は「不幸」に到達してしまうことも少なくありません。前者は望むとおりに幸福に到達する欲望なので、正しい欲望→「義なる欲望」とよびます。後者は、結局は不幸に到達する欲望なので、誤った欲望→「不義なる欲望」とよぶことにします。

不義なる欲望

では、なぜ不幸になってしまうのでしょうか。それは欲望が自己中心だからです。

自分さえ満足すればよいという邪心から生じる「不義なる欲望」が不幸にしてしまうのです。それは本人だけでなく、家族や社会も不幸にしてしまうこともあります。いわゆる「悪」と呼ばれるものです。

悪は自己中心「邪心」から生じます。邪心は自分さえ満足すればよく、他人の喜んでいる姿を見ても、自分は喜べず、他人の不幸を自分の心の痛みとして感じることができません。むしろ他人の不幸を喜んでしまうような心が邪心です。邪心は、しばしば嫉妬心や恨みなどから生じることもあり、個人差はあるものの誰もが持っています。

また、「邪心」を「邪心」として認識できず、悪気がなく、心の思うままに行動したら「不幸」になってしまうこともあります。この場合、後に気がついて、「何であんなことをしてしまったのだろう」と良心の呵責が起こります。私たちの多くは「不義なる欲望」に傾きやすい傾向にあります。

義なる欲望

悪に対するのが「善」です。他人に幸福になってもらいたいという本心から生じる「義なる欲望」が幸福に至ります。それは本人だけでなく、家族や社会も幸福にします。

悪が自己中心であるのに対し、善は他人中心「本心」から生じます。本心は他人に満足してもらいたいという心で、他人の幸福を自分の心の喜びとして感じます。他人の喜んでいる姿を見て、自分も喜びたいという欲望です。他人の幸福を喜ぶ発露は本心です。本心も個人差はあるものの誰もが持っています。

本心からは、他人のため、社会のために生きたいという欲望が生じます。例えば、困っている人を助けたいという欲望は、自分よりも他人を中心に考えていることであり、本心が発露です。 被災地等でボランティアをしている方は、「ボランティアはさせていただいている。」といいます。「義なる欲望」を満たし、幸福になることができるからです。 助けられた人も、感謝と幸福感が一生続くことでしょう。


03/05

人間の矛盾性

いかなるものも一つの個体の中に同時に相反する2つの目的を持って存在できるものはありません。一つの個体の中に同時に相反する2つの目的を持って存在している場合、哲学的には「矛盾している」と表現します。

人間は常に「幸福」になることを目的として生きているにも関わらず、あるときは望みとおり善を行い「幸福」を実現できますが、あるときは悪を行い、正反対の「不幸」に到達してしまうこともあります。一つの個体が「幸福」と「不幸」という相反する2つの目的を実現する状態で存在しています。これを「人間の矛盾性」とよんでいます。

行き先不明のバスの喩え

例えば、東行きを掲げているバス(東に行く目的を持ったバス)には、何人乗客がいようとも、東に行くという同じ目的を持った人たちが乗っているべきです。 しかし、西に行きたい人も乗っていたらどうなるでしょうか。 しかも、西に行く乗客の方がより多く、西へ行くことを言い張ったらどうなるでしょうか。喧嘩になるかも知れません。 このとき、運転手が多数派を受け入れ、西へ向かってしまったらどうなるでしょうか。 東行きを掲げているバスが、あるときは正しく東に行き、またあるときは西に行くようなことがあったら、 そのバスはもはや存在意義がなくなります。哲学的にいえば、「矛盾したバス」と表現されるでしょう。

これと同等なことが、私たち人間にも起こっているのです。 幸福に向う「義なる欲望」を持っているものの、これとは正反対の不幸に向う「不義なる欲望」も同時に持っているのです。この2つの欲望を持ってしまったとき、葛藤が起こります。葛藤が起こるのは、相反する2つの目的は共存することができず、どちらかを排除しなければならないためです。このため、人間は本来、幸福に向うという目的を持っているのにも関わらず、不幸に到達してしまうことがよくあるのです。これを「人間の矛盾性」とよんでいます。

壊れた瓶の喩え

瓶は液体を入れておくために存在します。しかし、瓶の底に穴が開いていたらどうでしょうか。瓶が「液体を入れる」という本来の目的と「液体を漏らす」という相反する(正反対)の2つの目的を同時に持つことになります。こうなると瓶として存在することはできません。「穴の開いた瓶」「壊れた瓶」と呼ばれることになるでしょう。

相反する目的を持っている人間もいわば「壊れた人間」です。哲学的に表現すると「矛盾した人間」ということになります。


04/05

人間の矛盾と堕落

私たち人間はあるときには「善」を行ない、またあるときには、正反対の「悪」を行います。人間は「幸福になる」ということを目的として、生きているのに、「邪心」から「不義なる欲望」が生じ、それを制御(コントロール)できないときには、本来は望まない悪なる行動をしていまい「不幸」に陥ってしまいます。

また、「邪心」を「邪心」として認識できず、悪気がなく、心の思うままに行動したら「不幸」になってしまったということもあります。この場合、後に気がついて、「何であんなことをしてしまったのだろう」と良心の呵責が起こります。

このように人間が矛盾した状態を(主にキリスト教や哲学で)「堕落した人間」と表現します。

つまり、現在とは違う「本来の人間」の姿(状態)があり、現在の人間は「偽りの人間」の姿(状態)にあり、これを「堕落した人間」というのです。仏教では、人間本来の理想の姿(境地)を「涅槃寂静」「灰身滅智」などと表現しています。キリスト教では、堕落した人間を救うために、キリストが再臨すると説かれています。

人間の矛盾性が社会の矛盾性を生む

人間は、誰もが幸福になりたいと願っていながら、望んでいない不幸に引っ張っていくようなもう一つの指向性(邪心の指向性)を持っています。そのため、幸福を得るためには、幸福に行くことを妨げている欲望「不義なる欲望」を除去する必要があります。不義なる欲望は肉体にあると考え、昔から修道者たちが戦い(難行・苦行)に挑み、滝に打たれたり、断食をしたりして、肉体を打ってきました。

本心から生じる義なる欲望に従って生きると幸福になり、そのような人間が増えるほど、世界は幸福で平和なものとなるでしょう。一方、邪心から生じる不義なる欲望に従うと不幸になり、そのような人間がつくる世界は、不幸で紛争や戦争が起こる世界となるでしょう。

私たちはよく「世の中が狂っている」、「社会が矛盾している」などといいます。しかし、社会や家庭をつくっている人間自身が矛盾しているのです。そのような人間が社会をつくれば、必然的に矛盾した社会がきてしまうのです。


05/05

人生は航海のごとし

「人生は航海のごとし」といわれるように、人生は航海に喩えれれます。 さまざまな面で時短化が進んでいる現代では「人生は航空のごとし」といえるでしょう。 つまり、私たちの人生は、「幸福(幸せ)」という目的地に向かって、飛行機を乗り継ぎながら目指しているようなものかも知れません。 あるときは、逆風の乱気流の中でもまれながら、あるときは追い風で順調に進みながら「幸福」という目的地を目指しています。 しかし、なぜか正反対の「不幸」という目的地に到着してしまうことが多いのです。 それはまるで、日本から南国の島ホノルル行きの飛行機に搭乗したはずなのに、 なぜか極寒の地シベリアに到着してしまったようなものです。

なぜ、そのようなことが起こってしまったのでしょうか。自分が間違った飛行機に乗ってしまったのでしょうか。 より真実に近い内容で喩えると、行き先を偽る悪徳の航空会社に騙されて、その飛行機に搭乗してしまったことです。 「私どもの飛行機に乗れば、必ず「幸福」に到着します」と言って人々を騙し、正反対の「不幸」へ連れていってしまうのです。

 

この航空会社の社長はサタンです。サタンとは、端的にいえば、神を恨み、人間に強い嫉妬心を抱いており、神の理想実現を妨げている霊的存在です。 神は人間を我が子として創造し、人間の幸せを理想として創造しました。サタンはその反対の不幸へ陥れようとしているのです。

サタン経営の航空会社は、客に対して、行き先を偽る詐欺会社のようなものです。しばしば人間は、嘘の航空会社の飛行機に乗り継ぎながら不幸の人生を歩んでいるのです。 本来ならあり得ないこと、これが「矛盾」です。逆に真の航空会社を見極め、その会社の飛行機に乗れば、幸福の人生を歩むことができるのです。