第一次世界大戦とロシア革命、ソビエト連邦成立

レーニンは、世界初の社会主義国ソ連を誕生させた指導者。彼が目指したのは、戦争をなくすため、新しい平等な社会を打ち立てることでした。

第一次世界大戦
World War I
オーストリア・ハンガリー(同盟国側)がセルビア(連合国側)に対し宣戦すると、ロシア(連合国側)がこれに対抗します。すると、ロシアを相手に、ドイツ(同盟国側)が宣戦します。さらに、ドイツはフランス(連合国側)にも宣戦します。こうして各国の連鎖反応を呼び起こし、第一次世界大戦が開始されてしまいました。第一次世界大戦は、4年間にわたって消耗戦が続けられ、およそ850万人の戦死者と1300万人の民間人犠牲者を出しました。

第一次世界大戦とロシア革命

第一次世界大戦とロシア

第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件を描いた絵画

第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件 - 1914.6.28

サラエボ事件と第一次世界大戦

1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が、セルビア王国の青年により暗殺されました。サラエボ事件(※1)です。この事件をきっかけにオーストリア=ハンガリーがセルビアに対し宣戦。さらに周辺諸国が次々と参戦し、第一次世界大戦にまで発展してしまいました。

※1:サラエボ事件…1914年6月28日、バルカン半島の都市サラエボでおこった、オーストリア=ハンガリーの帝位継承者夫妻(皇太子夫妻)の暗殺事件。犯人はプリンチプというセルビア王国の青年。

第一次世界大戦では、参戦国の指導者から出征兵士まで誰もが、この戦争は短期間で終結すると考えていました。そして、人々は勝利を楽観し、兵士を盛り立てて戦場へ送り出します。戦争が始まってわずか1ヶ月のうちに、ヨーロッパでは、1000万人以上が動員されました。しかし、戦いは一進一退を繰り返し長期化。戦況は泥沼化し、それまでにない大規模で悲惨な戦争になりました。

総力戦となった第一次世界大戦

第一次世界大戦では、産業革命ではじまった大量生産、大量消費が戦争にも持ち込まれました。当時の最新兵器だった戦車や飛行機、潜水艦なども次々と登場します。さらには、毒ガスなどの大量殺戮兵器も使われ、多くの戦死者が出ました。

各国は短期間で物資を使い果たしてしまったため、勝敗はそれぞれの国の生産力に左右されることになります。そして、全ての資源や労働力を戦争につぎこむ「総力戦」体制がしかれ、女性や子供も労働に駆り出されるようになりました。

※19世紀までは、国民と戦争は切り離されており、国民にとって、戦争は遠い存在でした。

総力戦に耐えられなかったロシア

この総力戦は、ロシアに大きな打撃を与えました。街からは生活物資が消え、人々は苦しい生活を強いられました。近代化に遅れをとっていたロシアに、総力戦に耐えられる国内体制など、整っていなかったのです。

ボリシェヴィキ(のちのロシア共産党)の指導者レーニンは、このような愚かな戦争は、すぐにでも止めるべきだと主張しました。この戦争の背景には、資本主義の拡大を目指す帝国主義(※)があり、戦争を止めるには、資本主義自体を打倒する必要があると考えたのです。こうして、レーニンは革命への道を進むことになります。

※帝国主義…国家が領土(植民地)の獲得や市場の独占を目指して、他民族や他国家を侵略・抑圧する政治・経済体制と政策。第一次世界大戦は「帝国主義戦争」とも呼ばれています。


三月革命 - 1917.3

3月革命の写真

3月革命 1917.3

食糧危機に起因するデモが発展

1917年3月、ロシアではついに、戦争で苦しい生活を強いられた労働者が「パンと平和(食糧と停戦)」を求めて首都ペトログラードでデモが起こります。デモが各地に広がっていく中、反乱した兵士もこれに合流。ロシア全土にデモが拡大しました。このとき社会主義者をリーダーとし、労働者や兵士からなる「ソビエト(評議会)」という組織が各地に結成され、革命がおしすすめられました。

臨時政府の樹立と帝政の崩壊

国会ではソビエトが支持した政治家による臨時政府が樹立され、皇帝ニコライ2世は退位。300年続いた帝政ロシアの王朝(ロマノフ朝)は終わりを告げました。これを三月革命(ロシア暦/二月革命)といいます。


十一月革命 - 1917.11

1917年11月7日、ネヴァ川に浮かぶオーロラ号の空砲を合図に、革命軍は臨時政府の最後の拠点である冬宮を攻撃。一夜にして打倒した。(山川出版「世界史図録ヒストリカ」より)

終わらない戦争

3月革命によって、ロシアは資本主義と決別し、戦争を止めると思われました。しかし、臨時政府は帝国時代の方針(※)を引き継いで戦争を続けたため、人々の間には不信感が広がります。

※臨時政府は、一部の社会革命党のケレンスキーという社会主義者が入りましたが、立憲民主党やメンシェヴィキを中心として組織されたため、ブルジョワジー(社会主義では「資本家階級」)に有利な政策を行うようになります。第1次世界大戦では、多くの軍需産業が儲かったため、ブルジョワジーは戦いが続くことを望み、臨時政府は戦争を継続する政策をとったといわれています。

人類初の社会主義政権樹立

ボリシェヴィキの指導者レーニンは「今こそ革命によって社会を変えるチャンスだ」と感じます。レーニンは亡命地(スイス)から帰国(※)し、その翌日には、「4月テーゼ」を発表し、臨時政府との対決姿勢を示します。

※ドイツは交戦国であるロシアの混乱をもくろみ、レーニンら革命家の帰国を支援しました。帰国させる際には、革命の宣伝させないよう(世間に知られないよう)、レーニンら革命家を封印された列車(封印列車)に乗せて移送させました。

4月テーゼ(抜粋) ▼
2条 現時点のロシア情勢の特殊性は、権力をブルジョワに渡した革命の第1段階から、プロレタリアと極貧農の手に移る第2段階への過渡期ということである。

3条 (資本家の政府たる)臨時政府を決して支持しないこと。

4条 労働者の代表ソヴィ工トが革命政府の唯一の可能な形態であるということを大衆に説明すること。

戦争中止を訴え、パンと平和、そして土地を求めることを明確にします。そして戦争を止めない臨時政府を倒し、すべての権力をソビエトが握るべく革命が必要性を訴えると、これを支持する勢力が増大。こうして、ボリシェヴィキとソビエトは、臨時政府と対立しました。

レーニンは民衆の支持を集め、一気に革命運動を進めました。そして1917年11月、首都で武装蜂起。革命勢力は首都を制圧し、臨時政府を武力で打倒しました。これが十一月革命です。こうしてレーニンは、人類史上初の社会主義政権となる、ソビエト政権を樹立したのです。

革命政党の政策

革命政党は「共産党」と名乗りました。主な政策として、「平和・農民のための土地」を掲げ、
・戦争をやめて平和を取り戻すこと(平和に関する布告)
・地主や王室の土地を没収し、農民に利用権を与えること(土地に関する布告)
を約束し、実行しました。また、重要な産業や鉄道、銀行の国有化をすすめました。

そして約束通り、ソ連は1918年3月、ドイツと単独講和(※)を結び、第一次世界大戦から途中離脱しました。

※ブレスト=ルトフスク条約

その数ヶ月後の1918年11月、第一次世界大戦は、連合国の勝利によって終結します。


ベルサイユ体制と干渉戦争

1919年6月28日、ヴェルサイユ宮殿「鏡の間」で講和条約が調印された。

ベルサイユ体制

その後、戦後の処理をめぐって、ロシアは危機に直面します。世界大戦が終結した翌年の1919年、パリ講和会議が開催されました。そして戦勝国により、「ベルサイユ体制」と呼ばれる、ヨーロッパ中心の新しい国際秩序が誕生します。この時、戦勝国は自分たちの利益を優先し、敗戦国ドイツに植民地の放棄、軍備制限、賠償金支払いなどを課しました。さらに資本主義と対立する社会主義の台頭を恐れ、ロシアへの圧力をかけました。

干渉戦争

その頃ロシア国内では、社会主義政権(共産党)に不満を持つ資本家や保守的な軍人によって反革命軍(反共産党勢力)が結成され、内戦状態に陥っていました。そこに資本主義各国も、反革命軍を支援して内戦に加担するようになります。アメリカ・イギリス・フランス・イタリアに加え、日本までもがロシアに軍隊を送り込み(シベリア出兵)、圧力をかけました(対ソ「干渉戦争」)。内戦と干渉戦争は絡み合いながら革命政権を圧迫しました。

ソビエト政府は赤軍を組織して対抗し、反革命軍をおさえ、外国軍をしりぞけました。また、コミンテルンを組織して、各国の共産党やアジアの民主主義勢力などを指導して、世界革命をおしすすめようとしました。


ソ連(社会主義国家)の成立

1922年12月30日、ソヴィエト社会主義共和国連邦が成立。後に加盟国が増え、共和国が15、自治共和国が20、自治区が8、民族区が10で構成されるようになった。
ImageSource:DeviantArt

戦時共産主義体制

レーニン(ソビエト政府)は内外の危機に対処するため、徹底した「戦時共産主義体制」をしきました。全工業を国有化し、あらゆる経済活動を国家が管理します。また、兵士を集めるため、兵士の志願制を徴兵制に改めました。さらに、農民からは食糧を強制的に提供させました。

その結果、食糧が奪われることで農民の生産意欲は薄れ、食糧不足が深刻化します。それに加え、ウクライナでは飢饉が発生し、数百万の農民が餓死しました。

それでもなおレーニンは、国は上から強い力で率いる必要があると考え、一党支配を強めます。そして1920年末までに、反革命軍を鎮圧することに成功しました。内戦も収まり、国内は落ち着きを取り戻します。

新経済政策(ネップ)

1921年、レーニンは「戦時共産主義体制」に替わり、「新経済政策(ネップ)」を打ち出します。その中では、ある程度の自由な経済活動(資本主義的要素)を認め、経済水準は回復しました。

ソビエト社会主義共和国連邦(社会主義国家)の成立

そして1922年、4つのソビエト共和国で構成された「ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)」が成立しました。当初参加した共和国は、

  • ロシア
  • 白ロシア(ベロルシア)
  • ウクライナ
  • ザカフカース

の4カ国。やがて15の共和国で構成されます。

しかし、レーニンはソ連成立の数ヶ月前、重病に倒れていました。


世界の大国へ成長

五カ年計画

1924年にこの世を去ったレーニンの後を継いだのは、スターリンでした。スターリンは、レーニンの新経済政策(ネップ)を放棄し、再び全てを国が管理する計画を始めました。

スターリンのもとで、急速な重工業化と、農業の集団化が強行されました。そして、工業生産で世界第二位となり、世界の大国へと成長していきました。その過程では、抵抗する農民を逮捕・追放したり、生産物の強制的供出によって餓死者を出すなど、おびただしい犠牲者を出しました。

スターリン憲法

1936年ソビエト政府は「スターリン憲法」を発布し、男女普通選挙や民族の平等などをうたいました。しかし、自由な選挙など実施されず、共産党による一党独裁が続き、民族間の不平等は解消されませんでした。さらに、スターリンは、大粛清と呼ばれる反対派の殺害を行いました。

スターリンの独裁により、ソビエトは人々が抑圧される社会へと姿を変えてしまいました。レーニンが目指した社会主義建設は、厳しい現実の中でしだいに変質していったのです。

冷戦構造

また、ソ連は資本主義とは異なる考え方に立つ国家でした。そのため、ソ連はアメリカなどの資本主義陣営とは相容れず、20世紀後半には世界を2分する対立(冷戦)を作り出すことになりました。


〔参考・引用〕
NHK高校講座「世界史」/山川出版社「要説世界史」/山川出版社「世界史図録ヒストリカ」