イエスは生きて使命を果たすべきメシヤであった

イエスが死ぬために来たわけではない根拠

多くのキリスト教の教派では、神は罪のないメシヤ(イエス・キリスト)を遣わし、人類の罪を代わりに背負い、十字架で死ぬことにより、私たちの罪が清算されたと教えています。それを裏付けるかのような聖書の記録もあります。

しかし、メシヤは本当に十字架で殺されるために遣わされたのでしょうか。処刑されて死ぬことが使命だったのでしょうか。聖書に原理的な視点を加味すれば、イエスは、アダムができなかった使命「人類の真の始祖(父母)として立つこと」を成し遂げるために来られたのであり、決して死ぬために来られたわけではないことがわかります。ここでは、イスラエルの選民思想と聖書の中に、メシヤは生きて使命を果たすべきであったという根拠を探してみたいと思います。


イスラエル民族の選民思想

イスラエル民族は、選民思想を持っており、メシヤの登場を待ち望んでいました。選民思想とは、イスラエル民族は神に選ばれた民であり、多くの苦難を乗り越えた後、メシヤが遣わされ、王として迎え入れることにより、神の国を建国し、他の民族を導くという歴史的な使命を持つという思想です。選民思想は、イスラエル民族に遣わされた多くの預言者により教育されました。


メシヤとして信じることができず処刑した

神はヤコブ以降2000年間も、預言者を遣わし、メシヤを降臨させるための準備を進め、イスラエル民族も神が遣わしてくださるメシヤを待望していました。

イスラエル民族(=ユダヤ民族)の歴史を見ても、エジプト、バビロン、ローマなどから抑圧されたり、奴隷になったり、苦難の連続でした。そのため、イスラエル民族は、非常に強い気持ちで、メシヤを待ち望んでいました。

長い間、強い気持ちで待ち望んできたメシヤを、イスラエル民族自らの手で処刑してしまうことなど、あり得ないことではないでしょうか。

聖書には、ユダヤ民族の指導者たちは、イエスを悪霊のかしらベルゼブルに取り憑かれた男、世を惑わす者などとして非難していたことが記録されています。彼らはイエスをメシヤと知って殺害したのではなく、イエスを誤解し、メシヤとして信じることができず、メシヤとして受け入れることができなかったから処刑してしまったのです。このことは、イエスが十字架につけられたとき「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と祈られたことからも裏付けられるのではないでしょうか。

※イエスと同時期に、神は洗礼ヨハネを遣わしました。彼が神から与えられた使命は、イエスをメシヤとして証すこと、メシヤとして信じさせることでした。洗礼ヨハネは、イエスを否定し、使命を果たせませんでした。そこまで神が準備して遣わしたメシヤの使命が処刑されることであったとは考え難いのではないでしょうか。


選民はメシヤを信じなかった

イエスは、イスラエル民族を救いの道に導くべく、神の言葉を伝え、奇跡までも行いましたが、彼らはなかなかイエスを信じることができませんでした。イスラエル選民が、メシヤを受け入れようとしない状況で、イエスのもどかしさや嘆きが記録されている聖句いくつもあります。

めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。

新約聖書「マタイによる福音書」23章/37節

あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。

新約聖書「ヨハネによる福音書」5章/39節-40節

イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。

新約聖書「ヨハネによる福音書」6章/29節


代理贖罪を否定する聖句

この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。

新約聖書「コリント人への第一の手紙」2章/8節